イノベーションの時代
戦国時代は、イノベーションを起こした起業家たちにあふれている。
あの時代に有徳者や豪商といわれた大商人たちは、それまでになかった新しい商品、サービス、商売のやり方を編み出したという点で、ほとんどがイノベーションの達人たちである。
彼らは、現代よりはるかに生々しい生存競争のなかで、死に物狂いで新しい商売を生み出していた。
そもそも日本で「商業」が起こったのは室町から戦国、江戸初期の約200年の間。とりわけ戦国時代後期の市場経済の拡大は、ビッグバンのごときだ。
それまで近畿の一部都市をのぞけば日本全国、ほぼ物々交換、自給自足の経済だったのが、燎原の火のごとく地方都市まで貨幣経済、商品経済が浸透した。
人間の手で作り出せる商品やサービス、商売のしくみは、あの200年間でその原型が登場したのではないか。
戦国時代はイノベーションだらけの時代。有徳者や豪商たちは、新しい市場を創造したアントレプレナー(起業家)たちなのだ。

希代のアントレプレナー
ルソン助左衛門こと納屋助左衛門は、かなりユニークな戦国時代のアントレプレナーである。
同時代を生きた堺の豪商、今井宗久や津田宗及などが、時の権力者である信長や秀吉と結びついて流通を支配して商勢を拡大したのと比べると、助左衛門は権力者と結びつくというより権力者をたぶらかして大儲けした。
あげく、東南アジアに雄飛して日本から消えた。
それだけをとりあげるとアジアを股にかけた大詐欺師にも見えるが、「呂宋壺」という現代でも茶の湯の世界で珍重されるブランドを残していった。つまり400年以上つづくブランド商品を生み出した希代のアントレプレナーなのも確かなのだ。
ちなみに呂宋=ルソンは、現フィリピンの当時の国名、地域名である。
異常な高値
呂宋壺は「茶壺」、茶葉を保存する壺である。初夏に摘まれた新茶は、茶壷で寝かされて11月ごろ「口切」という行事のときに石臼でひいて抹茶にする。
呂宋壺は、今日でも茶事でお目にかかれる。
色合いや風合いに確かに優れたものを感じる壺もある。が、大半はそれといわれなければ、その辺で見かける壺となんらかわらない。そのありふれた壺の想像を絶する高値に、ほとんどの人は信じられない思いをする。
秀吉のころ、日本に来たヨーロッパ人たちが呂宋壺の高額さに驚愕したというエピソードが残っている。

1597年、長崎に入港したイタリア商人は、1万円もしないだろうと思った壺が5億円くらいになる、いや、場合によっては10億円くらいになると聞いて目が飛び出るほど驚いたのだが、そんな話はだれにも信じてもらえないと思って自国へのレポートに書くのをためらった。
ところが、船が長崎に着くや、秀吉の代官たちが乗り込んできて、呂宋壺を探し始めた。「隠している者は死刑にする」と言われて、腰を抜かした。イタリア商人は、そのときのエピソードとともに、土くれにしか見えない呂宋壺の高額さを本国に報告した。
信じられない壺の話は、こうしてヨーロッパにも伝わった。
ブームの新規性
呂宋壺ブームの底流には茶壺ブームというのがある。
中国の釉薬のかかった壷は古くから珍重され、十六世紀を通じて茶の湯愛好者である数寄者といわれる人々の間で高額で取り引きされた。釉薬のかかった呂宋壺はその茶壷ブームの掉尾を飾るものだった。
「茶の湯」ブームの絶頂期と重なったことも影響している。
秀吉の時代から江戸初期にかけてが、その時代である。
当時の大名や豪商はもとより、地方の武士や商人にまで流行していた。茶人たちは、大量にしかも高額で呂宋壺をこぞって購入した。呂宋壺を持つことが、ステータスだった。
日本史上初めてブームになって売れまくった高額の趣向品だろう。
輸入元のルソンでは、その種の壺がなくなったというのだから、当時の海路輸送の困難さとその量の多さを考えると尋常ではない。
呂宋壺は突如市場に現れ、いきなり高価な値段で全国的に取引された点で、それまでの日本には見られないパターンの人気商品だ。
呂宋壺の仕掛け人
呂宋壺ブームの背後には、仕掛け人がいる。
なぜなら、底流として茶壷ブームはあったとしても、ルソンの人々が生活用品として使っていたありふれた壺が、ただ日本に持ってきただけで、そんな短期間で高価なブランド商品に化けるのは無理がある。
情報化社会といわれる現代でさえ、新しい商品が口コミで自然にブランド化するには時間がかかる。
たとえ周到な戦略と広告宣伝活動によってブランド化を画策しても、多大な費用と時間がかかるのだ。
素朴な情報伝達手段しかない当時の社会で、口コミだけで短期間に呂宋壺がブランドになるのは困難だ。
であれば、呂宋壺を新しいブランドとして短期間で確立させた仕掛け人がいる。それはだれか、どんな仕掛けがあったのか。
『太閤記』に挿入された商人エピソード
秀吉の事績を顕彰する目的で書かれた軍記物、小瀬甫庵という人が書いた『太閤記』のなかに、おもしろいことに一か所だけ、商人が主役として登場するエピソードがある。「呂宋より渡る壺の事」の段である。
『太閤記』は1620年代の著作だが、エピソードは1594年の出来事だ。甫庵はエピソードの年は30歳、当時は豊臣家二代目の関白・秀次に医師として仕えており、エピソードの現場にはいなかったとしても、秀吉情報をほぼリアルタイムで知ることのできる立場にいた。
エピソードはただの創作ではない。
以下はその「呂宋より渡る壺の事」の段を現代語訳したもの。
文中の「真壷」というのは形や壺表面の釉薬の具合などから中国製とみられる茶壺の呼び名で、呂宋から輸入された真壷が「呂宋壺」とよばれる。
実際、そのころルソンに存在した壺は、おそらく何百年も前に中国から生活用品として持ち込まれた中国製の壺と考えられている。当時のルソンではその種の壺は生産されていなかったからだ。
呂宋より渡る壺の事-『太閤記』巻十六の一段
堺の納屋助右衛門という町人が、去年の夏、台湾や呂宋に渡り、文禄三年七月二〇日(1594年9月4日)に帰朝した。その時の堺の代官は石田正澄だったので、助右衛門は正澄を通して唐傘とろうそく千本、生きたじゃ香二匹を秀吉公に献上し、お礼申し上げた。
さらに五十個の真壷をお目にかけたところ、秀吉公はことのほかご機嫌で、大坂城の西の丸の広間に壺を並べさせ、千宗易などにも相談して、上中下の値札をつけさせ、所望する者はだれでも選びとれと仰せになった。
これにより希望の人々が西の丸にお伺いし、値札にしたがって五、六日のうちにほとんど売れてしまった。
残った三個を持ち帰りたいと正澄に納屋が申し上げると、秀吉公は、その代金を与えて残りの壺三個を取っておけと仰せられたので、助右衛門は金子をちょうだいした。こうして助右衛門は五、六日のうちに徳人となった。

衝撃の呂宋壺展示即売会
大坂城主催の呂宋壺の販売は、当時の人々には衝撃だったろう。
そのころの大坂城は、全国の大名・武将、豪商、文化人、芸能人、豊臣政権の武士たちが出入りする日本随一の巨大施設、イベント会場でもあった。しかし、それは秀吉が天下統一を実現したから初めてできたことで、いわば国会議事堂に呂宋壺展示即売会場を設けたようなものだ。全国の権力者、有力者が多数集まる展示即売会というのは、日本史上初だろう。
また、売上高は現在の金額で数百億円規模だったとみられ、一つの展示会でこれほどの額というのも日本初だったろう。
さらに、値札をつけて不特定多数に売るというやり方自体が、対面販売が当たり前の時代、画期的な販売方法だったはずだ。
三井高利が江戸の越後屋で現銀掛値なし、現代の定価値札=正札のようなものを呉服につけて不特定多数に売るという新しい販売方法で成功したのは、十七世紀末である。それまでは掛値、つまり対面販売で値切られることを想定して初めは高値を言って交渉を始めるので、値札をつけるというのはめずらしいことだった。アフリカでは、いまでも値札をつけずに日用品が売られている所も多いというから、値札販売というのはわりと最近の話なのだ。
呂宋壺は上中下の値札をつけて販売したというから、ある程度販売価格に幅をもたせていたのだろう。正札販売とまではいかなかったが、展示即売会で値札販売というのが画期的だったのは間違いあるまい。
呂宋壺展示即売会が衝撃的だったのは、『太閤記』でほかに商人に関する記事が一つもないことが雄弁に語っている。著者の小瀬甫庵には、秀吉時代に起こった出来事のなかでどうしてもはずせない印象的な出来事だったのだ。
助左衛門の実像
呂宋壺展示即売会に登場する堺の納屋助右衛門は、ルソン助左衛門の通り名で知られる海商、いまでいうところのプレイングマネージャー型の貿易商である。
1978年のNHK大河ドラマ『黄金の日々』の主人公となり、松本幸四郎が演じて人気を博したことでルソン助左衛門の名を知る人は多い。覚えている人は、2016年の大河ドラマ『真田丸』のなかで松本幸四郎が助左衛門役で出てきたのには、脚本家の三谷幸喜さんの粋な計らいを喜んだことだろう。
このルソン助左衛門、その名が知られている割には謎だらけである。というか、ほとんど何もわかっていない。
わかっていないが、「ルソン=呂宋=現フィリピン」助左衛門という通称が示しているように、ルソンと貿易をして、「呂宋壺」で大儲けしたというエピソードだけが知られる。そのエピソードとは、『太閤記』の呂宋壺展示即売会にほかならない。当時の記録はほかに何もない。
1世紀ほど後に助左衛門が登場するいくつかの書物があるが、すべて『太閤記』エピソードの写しである。寺社の言い伝えにもいくつかエピソードはあるのだが、真偽がよくわからないだけでなく、助左衛門の商売ぶりを示すものは見当たらない。
要するに、助左衛門の商売を知る史料は『太閤記』だけなのだ。
垣間見える助左衛門の発想
拙著の『戦国イノベーション―たくましき海商ルソン助左衛門の時代』では、『太閤記』の検証をした。
呂宋壺展示即売会の信ぴょう性についてだ。
結果、「千宗易などにも相談して」という部分以外は、ほぼ史実であろうという結論である。千宗易とは千利休のことだが、文禄三年にはすでに亡くなっていてこの世の人ではなかった。
しかし、著者の甫庵が勘違いしていた可能性もあるのだが、その場に利休はいないとしても、「相談して、上中下の値札をつけさせた」のは事実を反映しているのではないかと思う。
助左衛門は、呂宋壺展示即売会以外ではその名がどこにも出てこない。堺の史料にも、朱印貿易関係の史料にも、である。その他、大名家や商家の古文書にもいまのところ名が見当たらないことから考えれば、彼が秀吉と接触したのは、呂宋壺展示即売会の時期だけだろう。それ以外は、海外と堺の間を行き来していたと考えるのが合理的だ。
『戦国イノベーション』で記したのだが、私は千利休とつながりのあった助左衛門が、利休の茶の湯における高名を利用して呂宋壺ブームの仕掛けをした――と考えている。
いまであれば、有名人を広告宣伝につかって商品をブランド化する類の仕掛けは当たり前に見られるが、そうした発想を実行にうつした商人は、助左衛門が初めてではなかっただろうか。
※戦国イノベーション関係の記事は「FaceBook 戦国イノベーション」にもあります。

