ぶれずに生きるには広い世界観が必要。そんな世界観はどのように育てられるのか、というのが本稿のテーマ。
- ぶれないメカニズム
- ぶれない人の条件
- ぶれない生き方の基本と原則
ぶれないメカニズム
居場所をもとめて動きまわる点
私たちの知覚には、「自動運動」という不思議な現象があります。
この現象は、白紙とペンさえあれば、次のようにして簡単に体験できます。
ためしてみれば、これほど自分の知覚は曖昧なのかと驚かされることうけあいです。
まず、広くてきめのこまかい白紙の真ん中に、ごく小さな黒点(0.2mmくらい)をえがきます。きめこまかい白紙がよいのは、余計な情報をなくすため、できるだけ紙の表面の凹凸やしわがないほうがよいからです。
次に、視野をおおうほどその白紙を目に近づけて黒点を凝視します。
背景を真っ白にしてほかに何の情報もない状態で黒点だけを注視するわけです。
すると、何がおこるのか――「黒点が生き物のように動きまわる」のです。

黒点が動きまわるのは、もちろん物理的に動いているからではありません。
眼球運動によるものでもありません。
動きのパターンもぶれ幅も個人差がありますが、ほとんどの人はキツネにつままれたような感覚になることでしょう。
世界は頭のなかで加工される
自動運動は、「自分の外の世界=外界」はそのまま頭のなかにコピーされるのではなく、頭のなかで“加工される”ことをしめしています。物理的な運動でもなく、眼球運動でもないのに、頭のなかでは動いているわけですから。
つまり、自動運動は外界でおこっている現象ではなく、頭のなかでおこっている現象。
原因については諸説あるようですが、ここで注目したいのは、結果として「周囲に何もない1つだけの情報は、知覚を不安定にする」という事実です。
そして、さらに興味深いのは、黒点の近いところに線をえがけば、ぶれ方が小さくなり、四角で囲むとほとんど動きがとまってしまうことです。
安定した自分は“周囲”がつくる
自動運動の実験は、まるで“ぶれる人”と“ぶれない人”のちがいを見せてくれているかのようです。
黒点を見るのは頭のなかの“自分”、その自分が“頭のなかの世界”に黒点を位置づけようとするのですが、黒点以外に情報がないので、比較するものをもとめて自分の視点が定まらない状態が自動運動に表れていると考えられます。
自動運動する黒点は、視点の定まらない自分の分身、アバターのようなものです。
であれば、自分のアバターが四角のなかで安定するのは、何を意味しているのでしょうか。
答えは、自分(黒点)は周囲(四角)を基準にして位置づけられてはじめて安定する、つまり、“周囲”がなくては、何人も安定できないということでしょう。
“周囲”は頭のなか
自分を安定させる“周囲”は、条件が制限された実験であれば“四角”という図形でよいかもしれませんが、普段の私たちの心や精神を安定させる、四角に相当する“周囲”とは何なのでしょうか。
身の回りの見慣れた景色や建物、部屋、使い慣れた機器、そして携帯やスマホで知人や家族といつでもコミュニケーションがとれる環境、といったものはまちがいなく“周囲”に相当するでしょう。
当たり前にあるそれらの“周囲”が、私たちにとってどれほど精神安定剤になっているか、いきなり一人で見知らぬ外国の街に立たされたときの不安を想像すれば、そのありがたさに感謝したくなります。
しかし、そのような“周囲”があっても、人間関係や仕事や将来への不安で自分の言動が定まらなかったりすることがあります。
ぶれる自分がいたりします。
周囲の環境がいかに恵まれているように見えても、それだけで人は精神的に安定した自分になれるとはかぎりません。
金持ちが幸せとはかぎらないのはその一例。
逆に、周囲の環境が恵まれていないように見えても、安定した自分、ぶれない自分、目標にまい進して充実感があるという意味で幸せな自分、である人もいます。
とどのつまり、自動運動が外界の現象でなかったように、自分がぶれたりぶれなかったりする原因は、外界にあるのではなく自分の頭のなかにあるのです。
“周囲”とは、外界ではなく、頭のなかにあって自分をそのなかに位置づける背景となる“世界”にほかなりません。つまり、自分の世界観や社会観や人生観。
本稿では以下、社会観や人生観も世界観の一部として述べます。
世界は成長する
世界観とは何でしょうか。
一言でとらえるのはむずかしい概念ですが、言動が不安定な子どもと大人の“世界”をくらべるとイメージしやすいかもしれません。

たとえば、幼い子にとっての世界は、ごくせまい範囲にかぎられます。自分が行動できる範囲、接する人だけが世界のすべてです。
それが20歳くらいなると、世界や社会や人生の知識を身につけ、そうした世界=世界観のなかに自分を位置づけられるので、子どもよりは安定した言動をとるようになります。
しかし、それは情報としての知識のまま、まだ経験や感情による意味づけは深くありません。
社会人としての経験をかさねることで社会の意味を深め、それまでの時間の延長としか認識していなかった人生の意味も、しだいに深く理解するようになります。
子どもが大人に“成長する”という言い方をしますが、その場合の成長とは、その人なりの世界観が育っていき、その世界観のなかに自分を位置づけていく過程だともいえます。
自分はどこにいるのか
だれでも世界や社会や人生の全体的なイメージが何かしらあると思いますが、そのイメージのなかで自分はどこにいるのでしょうか。
空間的な位置であれば地図上にイメージできますが、それだけが“世界”のなかの自分だと思う人はいないでしょう。
世界中でいま現に生きている人々の生活や文化、思いを感じ取り、そのなかの一人として自分をイメージするのが普通かもしれません。
たとえていえば、地図上の一地点に自分がいるだけの認識は子供の世界観。自分は多様な人々や生活や文化に満ちた世界のなかの一人であるという認識が大人の世界観です。ただし、人それぞれの世界の広がりや意味はちがいます。

視点を変えれば、空間や時間の座標だけではなく、信用や社会的地位、信条、教養、目標、美、人への思いやり、尊敬・・・多様な価値を座標とした場合、その座標のどの位置に自分がいるのか、その座標と自己認識が世界観と考えてもよいかもしれません。
ぶれない自分がいる世界
社会はただの“人の集まり”ではなく、人生はただの“生まれてから死ぬまでの時間”でもなく、意味に満ちた広がりと時間です。
自分のアバターのごとき黒点が単純な四角の図形で安定するというのは、認識のしかたについての基本原理。それは認識のメカニズムです。
“ぶれない自分”とは、そうした認識のメカニズムを土台として経験や知識を取りこんで成長してきた“自分”。
その自分を安定させるのは、四角のような単純な図形ではなく、生き物のように広く深く成長する、意味に満ちた世界。
より広い世界観のなかに位置づけられている自分が“ぶれない自分”です。
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