ぶれない生き方の基本と原則
成長のしくみを知る
私たちの頭のなかには、イメージや感情をともなった言葉のネットワーク空間があります。世界観とはその言葉のネットワーク空間であり、成長しつづけるものです。
たとえば、幼い子がはじめてマヨネーズを見て「これなに?」と母親に質問したとします。
母親は「マヨネーズよ」と名前を教えるでしょう。けれども、幼い子は、マヨネーズという名前だけでは満足しません。それが食べられる物であり、どんな感触や味をしていて、どのような食べ方をするのかを知ろうとします。止めるのもきかずに、触ったり、口に入れたり、なめてみたりするのはそのためです。
そのようにして、幼い子はマヨネーズという言葉といっしょにマヨネーズの“経験”を頭のなかのまだ小さな言葉のネットワーク空間 にインプットします。インプットされるとき、マヨネーズは“食べ物”や“ドロドロしたもの”や“好ましい味”といった言葉や他の食べ物のイメージとヒモづけられ、“意味”が定まっていきます。ヒモづけられた全体が、言葉のネットワーク空間、世界観です。
このとき、幼い子はマヨネーズを世界の一部にくわえ、ちょっぴり世界観を広げともいえます。さらに塩や砂糖などの“調味料”を学習し、マヨネーズもその一種であると知ることで、マヨネーズの意味がさらに明確になり、世界が深まっていきます。
そうして言葉を軸にしたネットワークが広がってくると、次には言葉を組み合わせて、考え方や価値観といった抽象的なネットワークもつくられるようになります。それが意味づけを多様なものにしていきます。
世界観とは、言葉や経験や考え方のネットワークとして、幼いときから広がり深まりつづけてきた頭のなかにある世界。“自分”とは、その世界のなかで生きる住人にほかなりません。

新しい世界をさがすとき
だれしも、子ども時代の世界観は自己中心的で偏狭なものです。
本能的な欲求が強く、知識も経験もほとんどなく、セルフコントロールのすべも知らないのですから当然です。
大人になっても、そうした自己中心的な偏狭さが完全になくなるということはありませんが、いつまでもその度合いが大きい人は、社会的、経済的、あるいは精神的に、不安定な状況におちいりやすいものです。
それは、偏狭さゆえに、多様な現実に対応できなくなるからで、より広い世界観に変化しなければ対応できなくなっていきます。
自分の言動に矛盾を感じたり、自己嫌悪や悩みが多かったり、何か新しいことを始めようと思ったりするのは、いまの自分の世界観では直面している問題に対応できないシグナルとみたほうがよいでしょう。
そんなときは、いままでの自分とはちがう自分、ちがう世界観がもとめられていると覚悟し、新しい世界をさがしに一歩前へ進むしかないと思います。
とにかく行動し経験する
世界観を広げる、つまり自分を変えたいとき、私たちには何ができるでしょうか。
たとえば、思い切って文化的なサークルに入ったのはいいけれど、グループの仲間たちの話に入っていけないというシーンがあるかもしれません。「この人たちは何が面白くてこんな話題で盛り上がっているの?」と。
そんなときは、「自分とこの人たちはちがう」と決めつけず、みずから進んでその話題について調べたりして、グループの価値観に早くなじむように心がけたほうがよいでしょう。
なぜなら、いままでの自分にない何かをもとめてサークルに入ったはずですから、ちがいを感じたときこそがそのチャンスです。いままで知らなかった価値観を受け入れてこそ、自分の価値観、世界観が広げられるのです。
ただし、仲間たちがもし倫理観の薄い、たとえば「人の物は自分の物」的なだらしない価値観の持ち主であるなら、仲間外れになるほうが正解です。世界観を広げるというのは、必ずしもすべてを受け入れることではありません。ただ、その場合でも、仲間たちとのコミュニケーションを通じて受け入れないほうがいい価値観をリアルに経験するという点で、自分の世界観が広がることになります。
考える時間はなるべく短く、ともかく行動し何かを経験することは、自分の世界観、ものの見方、見識を広げるもっともたしかな方法です。
受け入れるべきものを見定める
“世界”の基礎を頭のなかにつくらなければならない子ども時代はともかく、思春期を経るころから、人は与えられた情報をそのまま受け入れるのではなく、みずからの判断で取捨選択していけるようになります。
取捨選択するなかでも、とくに社会生活にかかわる考え方、ものの見方、価値観については、決して外してはならない基本と原則があります。
その例として、『人を見る目』では「反社会的な人かどうか」「真摯な人かどうか」という基本と原則をあげました。また『社会の舞台裏』の「社会のルールから生き方を読む」では“信義則”の重要性を述べました。
それらの基本と原則は、世界観は無秩序に構築されてよいものではなく、一定の方向性、価値観をもって構築されるべきことをしめしています。
なぜ世界観に方向性があるのか――それは、私たちが社会のなかで生きていかなければならないからです。真摯であることや信義則にかなうことは、社会を生きるために欠かせない素養です。そうした価値を優先していくことが、周囲の支えを得、ぶれない自分になる「尊敬に値する世界観」を形作っていくからです。
尊敬に値する生き方を目指す
尊敬に値する世界観とは、人を尊重し、信義に厚く、約束を守ることや人を喜ばすことなどを目指すべき価値とする世界観です。
こうした価値の大切さは、子ども時代に教えられるはずですが、人は大人になってそれを優先的な価値としなくなる場合があります。
なぜなら、現実の社会では、そうした価値に忠実なだけでは、競争に勝ち残れなかったりするからです。
ある意味、人は尊敬に値する世界観をどれだけ保持できるかを試されているようなところがあります。そのあたりの折り合いのつけ方は人それぞれでしょうが、最期のときまで自分に恥じることのすくない人生をまっとうすることが、真に“ぶれない”ということなのかもしれません。
社会の不条理と向き合う
社会人になると、大方の人はいろいろな組織に所属し、生活の糧を得ることになります。そして、組織への依存が深まるほど、人はその組織の持つ価値観や社風といわれるものに染まっていきます。
社会常識をはずさず、公正な社風の組織であれば幸いですが、反社会的なことをしてでも利益をあげようとする組織に所属してしまうこともあります。
最初から広く深い世界観をそなえて社会を見通せる人はいないわけで、たとえば大企業を信じて新卒で入社、何年も勤めあげてからその企業の不正に気づくというケースもあります。家族を養う糧を考えれば、簡単に辞めることなどできようはずもなく、まさに自分の世界観、信念がためされる局面です。
そんなときどうするのがよい、という答えはありません。
①この程度は不正ではないと頭のなかで合理化して何事もなかったかのように勤める
②改革のためになんらかの行動をとる
③まったくちがう生き方の準備を始める
一人ひとりがそのときの自分で答えを見つけていくのみです。ただ、どのように対応するにしても、そもそも「不正」とは何かを考えて受け入れられるものかそうでないかを判断するのは自分です。
臨機応変に世界を経験する
「反社会的な人かどうか」でも述べたように、営業活動などには競争がつきもの。競争相手をだしぬいたり、誇大広告まがいもめずらしくありません。

上のような誇大広告は禁止されているといっても、実際にはすぐに違反がわかるような広告をつくる会社はすくないわけで、判定がむずかしいのが現実です。
違反はしたくないが、かといって、できるだけ消費者の目をひきたいのはどの会社も同じ。
もし、業界の事情を知らない新入社員が、自分の世界観だけで自社の広告を「不正」だと決めつけたりしては、会社で苦労するばかりか、かえって偏狭な「善悪」にしばられて柔軟性を欠くかもしれません。
倫理上は好ましくなくとも商慣習上は許されるという場合もあります。
現実に不正の判定をしなければならないときというのは、ほとんどがグレーのケース。子ども時代の単純な「不正」の基準は通用せず、現実社会を生きながら複雑な基準に更新することになるでしょう。
ずいぶん昔、まだ若かった友人が地方から上京して自動車の販売会社に就職したのですが、営業活動になじめずにノイローゼとなり、帰郷して自殺したというケースがありました。
いまとなっては、そのとき答えが見つけられなかったとしても、もっと生きていろいろ経験をつんで世界観が広がれば、そこまで思いつめずにすんだだろうに、と思わずにいられなくなります。
社会や組織や人間関係には不条理があるのも事実です。
その現実のなかで「尊敬すべき世界観」つまりは自分の信念をどのようにつらぬくかを考え、実践するのが人生なのかもしれません。
絶対にゆずってはならないときもあれば、答えをすぐには出せないときもあります。私たちは、そんな現実に向き合って臨機応変に前進していくのです。
ゆずれない価値は守り通す
現実社会にはさまざまなハードルがあります。
乗りこえるハードルがあるからこそ人生が充実するというくらいのプラスの世界観で臨機応変に生きていきたいものです。
ただし、臨機応変といっても、わかっていてあきらかな不正の片棒をかつぐのだけは回避すべきです。なぜなら、世界観はすべての知識と経験がヒモづけられた頭のなかのネットワーク全体、人格そのものといってよいものですから、もしかたくなに拒否してきた考え方(不正)を無理に受け入れた場合、アリの一穴のごとく、人格を土台から崩壊させる危険さえあります。
あきらかな不正を平気でやれるのは、世界観も人格も崩れ、自分を律する軸を失って生き方がぶれきった人です。たとえ犯罪に手をそめなくとも、その精神は犯罪者と同じ。周囲の支えを得られる人ではありません。
尊敬に値する世界観というのは、「人を尊重し、信義に厚く、約束を守ることや人を喜ばすこと」をお題目にするのではなく、臨機応変に現実を生きながら、それらの価値を守れるだけの見識もそなえていかなければならないでしょう。
人の言動を鏡とする
世界観というのは、言動のはしばしにあらわれます。
リオ・オリンピックが終わったタイミングなので、それにからめた例で本稿を閉じたいと思います。
男子400メートルリレーの銀メダルが日本中をわかせましたが、これについて人類史上最速といわれるウサイン・ボルトは次のようにコメントしました。
「彼らのよさはチームワークだ。3月からバトンパスの練習をしていたらしいし、2、3回しか練習していない僕らとは比較にならない。選手どうしが信じ合っていたからこそ銀メダルが取れたと思う。このまま練習を続けていけばより世界レベルになれると思う」と。
※下はNHKの広報用動画の画面。動画を見るには再生ボタンを押して「YouTubeで見る」をクリック。2分34秒。動画はストップしないとその後もえんえんと続くのでご注意ください。
ボルトのコメントに対し、ネット上にさまざまな投稿が見られました。
①「なにこのあからさまに馬鹿にした発言」
②「①のおまえ、ひねくれてんなぁ」
③「ありがとうボルト」
意見、感想がいろいろあるのは当然。人によっては①~③のすべての気持ちがあるかもしれません。ただ、①の気持ちが心の中にしめる割合はすくないのが普通でしょう。匿名で投稿できるので無責任な発言がみられるネットですが、それでも①のような投稿をするのはごく少数です。
①のような投稿をする人の世界観というのは、②の「ひねくれてんなぁ」が言い当てています。偏狭な世界観。
ボルト自身無自覚に上から目線になって語ったかもしれません。それが気にさわって①のような投稿も出てくるのかもしれませんが、たとえそうであるとしても③のように投稿したくなるのがより広い世界観ではないでしょうか。
①は、若気のいたりか社会経験のすくない人、すくなくとも本稿で述べてきた「尊敬に値する世界観」の持ち主ではありません。ぶれることは試行錯誤にも通じるので、いつも悪いことだとは思いませんが、①の投稿をしてしまう人の世界観というのは、土台に欠陥があるようで、人生がぶれすぎないように祈りたくなります。


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