社会の舞台裏3/3

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社会のルールから生き方を読む

社会を律する幻想ルール

私たちの欲求が社会を動かしているのは間違いないとしても、一人ひとりが欲求をそのまま自由奔放にかなえてよいなら、社会はまたたく間に野生動物の世界にもどってしまいます。
逆にいえば、社会には野生動物の世界と同じにならないようにするしくみがあるということになります。

人とライオンの日常生活の違いは?
人とライオンの日常生活の違いは?

上は、左がどこにでもある“人”の日常生活、右が“野生動物”の代表選手のようなライオンの日常生活。
人もライオンも欲求を満たそうと日々をおくっているのは同じ。にもかかわらず、両者の日常生活には異次元の壁があるのが見てとれます。
明らかに、人の社会は弱肉強食とは異なる秩序で動いています。ライオンの集団にも本能的な秩序はありますが、別次元のものであるのは写真を見れば一目瞭然でしょう。
何がどうちがえば、この差が生まれるのか。
それは、私たちがただの“人の集まり”ではなく、「頭のなかにある社会」あるいは「言葉のネットワークで意味を与えられた社会」のなかで生きているからです。その頭のなかで意味を与えられた社会が採用しているルールにしたがい、私たちは生活しているわけです。
ライオンは、物質的、無機的なリアルな世界とじかに向き合っています。ライオンから見れば、人は頭のなかの実体のない幻想世界でリアル世界を覆い、幻想世界のオキテにしたがって生活している、ヘンな存在に見えているのかもしれません。

コミュニケーションイメージ3頭のなかのルール
コミュニケーションイメージ3頭のなかのルール

2方向のルール

社会のルールは、抑制と促進という2つの方向性を持っています。
秩序を乱す人を排除する「抑制ルール」、秩序に貢献する人を尊重する「促進ルール」、この2つが秩序をつくる両輪です。
より多くの人の欲求をかなえられるように社会が進化してこられたのは、2つのルールがブレーキとアクセルのようにして社会をコントロールしてきたから。
歯車のたとえでいえば、抑制ルールは、社会の動きをさまたげる歯車を修理したり、排除したりするための基準。促進ルールは、社会の動きを活発にする歯車に油をさしたり、より適したポジションに配置したりするための基準ということになります。
抑制ルールは、倫理、道徳、法律などの社会規範。
社会的な制裁をあたえ、一定の行動を禁止して社会をコントロールします。
「人を殺すな」
「盗むな」
「だますな」
といった、刑法に書かれているものから、弱い者をいじめるな、公共の場を乱すなといった、どこにも書かれていなくても、慣習的に人々の心を律する倫理や道徳です。

発展を促すルール

刑法に抑制ルールがあるなら、よく刑法に対比される、民法や商法などの法律には促進ルールがあるでしょうか。あるいは、経済の活性化のために政府が行う金融政策は、人々の欲求をかなえるものなら、促進ルールといえるでしょうか。
基本的には否。
ここで考えているルールは、頭のなかにあって人が自らしたがう基準を指すからです。
多くの法律や政策は、行政のアクションプラン。法律や金融政策をつねに心にとめて動いている人は、その関係者だけでしょう。
ただし、刑法や民法のかなりの部分は、人が自然にしたがっている慣習法を明文化していますから、抑制ルールや促進ルールといえます。
民法のなかの促進ルールとは、たとえば、「契約は意思表示の合致によって成立する」「成年に達しない子は親権に服する」「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない(信義誠実の原則)」といった、民法を知らなくとも普通の人なら当たり前にしたがっている規定です。
ちなみに、民法の規定は、社会常識で生活していれば、おおむねそれを保護するようにつくられています。

「ものの見方」がルールをつくる

私たちは個々のルールをいちいち覚えずとも、それらがどのようなものの見方から生まれているかを理解してさえいれば、臨機応変にルールにしたがった行動を自然にとれます。行動のたびにルールをチェックする人はまずいないでしょう。
実際、刑法や民法を知らなくとも、一般人が法に触れない生活をしているのは、ルールを生み出している精神、つまり、ものの見方を身につけているから。
抑制ルールの萌芽は、人類が集団生活をはじめた新石器時代、1万年以上前までさかのぼれるでしょう。
「人を殺すな」「盗むな」「だますな」といった抑制ルールは集団生活の維持に必須です。
はじめ慣習的に社会を規律していただろう抑制ルールが明文化されたのは、わずか数千年前。「目には目を、歯には歯を」のハムラビ法典は紀元前1800年ごろ。
その後、哲学や宗教の発達とともに、抑制ルールを説明する原理として「人を尊重する」といったものの見方、価値観が生まれたと考えられます。
もっとも、ルールが先かものの見方が先かは、いまの私たちの人生には無関係です。
現代人は、生まれたときから「人を尊重する」ものの見方のなかで育てられ、考えずとも、「人を殺すな」「盗むな」「だますな」を当たり前のこととして生きているからです。
もちろん、当たり前にしたがえない人も少数いるわけですが、そうした人を抑制するためにこそ、ルールやものの見方が歴史のなかで醸成されてきたわけです。
さて、では促進ルールのものの見方とは何でしょうか。
答えは民法に書かれています。
「信義誠実の原則」(信義則)がそれです。

ものの見方とルール
ものの見方とルール

人生を左右する信義則

信義則というものの見方、原理は、私たちの人生に重大な影響をおよぼします。
じつは、この「社会のしくみ―社会の舞台裏」を書こうと考えた最大の理由は、信義則が人生や社会のなかでもっとも重要であることを述べたいためでした。
刑法などの抑制ルールは、その名のとおり、社会活動に対して消極的で、社会のマイナス面・暗黒面への対症療法のような働きをするものです。
決して社会を活性化し、成長や進化を目的とするルールではありません。
抑制ルールは、社会の萌芽期、「殺されては困る」「盗まれては困る」といったさし迫った状況から生まれてきたものでしょう。
抑制ルールの指導原理になっている「人を尊重する」というものの見方も、社会を活性化するという点ではあまり意味がなさそうです。
人を尊重するというのは当然として、問題はその先、現実にお互いの欲求がぶつかり合うような状況に直面したとき、どう解決していくのかです。
「信義則」というものの見方は、社会を拡大、発展させる原理として社会の萌芽期から採用されつづけています。お互いの欲求がぶつかり合うような状況をバランスよく解決し、発展的な方向を目指す原理として、その内容を洗練させてきたとみられるのです。

社会のあるところ信義則がある

社会が形成され始めたころ、人と人がコミュニケーションによる結びつきを深めるにつれ、信義則にかなったやり方が自然に生まれていたのはたしかです。なぜなら、コミュニケーションは、信義則がはたらかなければ深まらないからです。
奪おうとする人が多い“人の集まり”では、コミュニケーションは深まりようがありません。盗人と、だれがコミュニケーションをしたいと思うでしょうか。
コミュニケーションは、“物々交換”の広がりとともに深まりをみせ、言葉や概念の発達を促したことでしょう。
物々交換は、相手への信頼が前提です。
相手が持っていて自分が欲しい物を得るために、相手がほしがっている物と交換する、「たったそれだけのこと」に見えますが、これは相手の物を奪わないという相互の信頼でなりたちます。
コミュニケーション・信頼・物々交換、これはセットです。
セットが初めて成功したとき、人は信義則の扉を開いたのです。
山の民が毛皮をもってきて、海の民の干し魚と交換する、ここにはお互いの品物への信用や自分の物を奪われないという信頼があります。
信義誠実の原型です。
そうした信義則によって結ばれた人の集まりが“社会”となり、その社会のなかで信義則に反する者を排除するために抑制ルールが生まれてきた、それが真相ではないでしょうか。

社会で生きるための原理

信義則は、現代社会でも活きています。
いまでも社会を発展させる原理でありつづけています。民法はいうにおよばず、政治や経済でも、ビジネスでも人間関係でも、です。
圧倒的多数の人は、一生、刑法的な抑制ルールのお世話になることはないでしょう。すくなくとも抑制ルールに反しない程度には、当たり前に「人を尊重する」ことができるからです。
であれば、私たちが優先課題とすべきは、信義則の具体的な姿を知り、実践することではないでしょうか。
もちろん、抑制ルールのものの見方「人を尊重する」も大切なのはいうまでもありません。「人を尊重する心があるから、相手に対して信義をつくし誠実に応じる」ともいえますから。ただ、信義則をよく知らなければ、人を尊重することの具体的な意味も、そして本当の意味もわからないのではないかと思います。
信義則、信義誠実に相手に応じる、この原理は具体的に人生のどのような局面でどのように発揮され、人生にどれほどの影響をもたらすのか・・・このテーマについては、項をあらため、「(仮)社会で成功するための基本と原則」という別タイトルで取り上げます。


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