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ぶれない自分になる3/3

ぶれない生き方の基本と原則

成長のしくみを知る

私たちの頭のなかには、イメージや感情をともなった言葉のネットワーク空間があります。世界観とはその言葉のネットワーク空間であり、成長しつづけるものです。
たとえば、幼い子がはじめてマヨネーズを見て「これなに?」と母親に質問したとします。
母親は「マヨネーズよ」と名前を教えるでしょう。けれども、幼い子は、マヨネーズという名前だけでは満足しません。それが食べられる物であり、どんな感触や味をしていて、どのような食べ方をするのかを知ろうとします。止めるのもきかずに、触ったり、口に入れたり、なめてみたりするのはそのためです。
そのようにして、幼い子はマヨネーズという言葉といっしょにマヨネーズの“経験”を頭のなかのまだ小さな言葉のネットワーク空間 にインプットします。インプットされるとき、マヨネーズは“食べ物”や“ドロドロしたもの”や“好ましい味”といった言葉や他の食べ物のイメージとヒモづけられ、“意味”が定まっていきます。ヒモづけられた全体が、言葉のネットワーク空間、世界観です。
このとき、幼い子はマヨネーズを世界の一部にくわえ、ちょっぴり世界観を広げともいえます。さらに塩や砂糖などの“調味料”を学習し、マヨネーズもその一種であると知ることで、マヨネーズの意味がさらに明確になり、世界が深まっていきます。
そうして言葉を軸にしたネットワークが広がってくると、次には言葉を組み合わせて、考え方や価値観といった抽象的なネットワークもつくられるようになります。それが意味づけを多様なものにしていきます。
世界観とは、言葉や経験や考え方のネットワークとして、幼いときから広がり深まりつづけてきた頭のなかにある世界。“自分”とは、その世界のなかで生きる住人にほかなりません。

自我≒自分。From「社会の舞台裏1/3」の図表
自我≒自分。From「社会の舞台裏1/3

新しい世界をさがすとき

だれしも、子ども時代の世界観は自己中心的で偏狭なものです。
本能的な欲求が強く、知識も経験もほとんどなく、セルフコントロールのすべも知らないのですから当然です。
大人になっても、そうした自己中心的な偏狭さが完全になくなるということはありませんが、いつまでもその度合いが大きい人は、社会的、経済的、あるいは精神的に、不安定な状況におちいりやすいものです。
それは、偏狭さゆえに、多様な現実に対応できなくなるからで、より広い世界観に変化しなければ対応できなくなっていきます。
自分の言動に矛盾を感じたり、自己嫌悪や悩みが多かったり、何か新しいことを始めようと思ったりするのは、いまの自分の世界観では直面している問題に対応できないシグナルとみたほうがよいでしょう。
そんなときは、いままでの自分とはちがう自分、ちがう世界観がもとめられていると覚悟し、新しい世界をさがしに一歩前へ進むしかないと思います。

とにかく行動し経験する

世界観を広げる、つまり自分を変えたいとき、私たちには何ができるでしょうか。
たとえば、思い切って文化的なサークルに入ったのはいいけれど、グループの仲間たちの話に入っていけないというシーンがあるかもしれません。「この人たちは何が面白くてこんな話題で盛り上がっているの?」と。
そんなときは、「自分とこの人たちはちがう」と決めつけず、みずから進んでその話題について調べたりして、グループの価値観に早くなじむように心がけたほうがよいでしょう。
なぜなら、いままでの自分にない何かをもとめてサークルに入ったはずですから、ちがいを感じたときこそがそのチャンスです。いままで知らなかった価値観を受け入れてこそ、自分の価値観、世界観が広げられるのです。
ただし、仲間たちがもし倫理観の薄い、たとえば「人の物は自分の物」的なだらしない価値観の持ち主であるなら、仲間外れになるほうが正解です。世界観を広げるというのは、必ずしもすべてを受け入れることではありません。ただ、その場合でも、仲間たちとのコミュニケーションを通じて受け入れないほうがいい価値観をリアルに経験するという点で、自分の世界観が広がることになります。
考える時間はなるべく短く、ともかく行動し何かを経験することは、自分の世界観、ものの見方、見識を広げるもっともたしかな方法です。

受け入れるべきものを見定める

“世界”の基礎を頭のなかにつくらなければならない子ども時代はともかく、思春期を経るころから、人は与えられた情報をそのまま受け入れるのではなく、みずからの判断で取捨選択していけるようになります。
取捨選択するなかでも、とくに社会生活にかかわる考え方、ものの見方、価値観については、決して外してはならない基本と原則があります。
その例として、『人を見る目』では「反社会的な人かどうか」「真摯な人かどうか」という基本と原則をあげました。また『社会の舞台裏』の「社会のルールから生き方を読む」では“信義則”の重要性を述べました。
それらの基本と原則は、世界観は無秩序に構築されてよいものではなく、一定の方向性、価値観をもって構築されるべきことをしめしています。
なぜ世界観に方向性があるのか――それは、私たちが社会のなかで生きていかなければならないからです。真摯であることや信義則にかなうことは、社会を生きるために欠かせない素養です。そうした価値を優先していくことが、周囲の支えを得、ぶれない自分になる「尊敬に値する世界観」を形作っていくからです。

尊敬に値する生き方を目指す

尊敬に値する世界観とは、人を尊重し、信義に厚く、約束を守ることや人を喜ばすことなどを目指すべき価値とする世界観です。
こうした価値の大切さは、子ども時代に教えられるはずですが、人は大人になってそれを優先的な価値としなくなる場合があります。
なぜなら、現実の社会では、そうした価値に忠実なだけでは、競争に勝ち残れなかったりするからです。
ある意味、人は尊敬に値する世界観をどれだけ保持できるかを試されているようなところがあります。そのあたりの折り合いのつけ方は人それぞれでしょうが、最期のときまで自分に恥じることのすくない人生をまっとうすることが、真に“ぶれない”ということなのかもしれません。

社会の不条理と向き合う

社会人になると、大方の人はいろいろな組織に所属し、生活の糧を得ることになります。そして、組織への依存が深まるほど、人はその組織の持つ価値観や社風といわれるものに染まっていきます。
社会常識をはずさず、公正な社風の組織であれば幸いですが、反社会的なことをしてでも利益をあげようとする組織に所属してしまうこともあります。
最初から広く深い世界観をそなえて社会を見通せる人はいないわけで、たとえば大企業を信じて新卒で入社、何年も勤めあげてからその企業の不正に気づくというケースもあります。家族を養う糧を考えれば、簡単に辞めることなどできようはずもなく、まさに自分の世界観、信念がためされる局面です。
そんなときどうするのがよい、という答えはありません。

①この程度は不正ではないと頭のなかで合理化して何事もなかったかのように勤める
②改革のためになんらかの行動をとる
③まったくちがう生き方の準備を始める

一人ひとりがそのときの自分で答えを見つけていくのみです。ただ、どのように対応するにしても、そもそも「不正」とは何かを考えて受け入れられるものかそうでないかを判断するのは自分です。

臨機応変に世界を経験する

反社会的な人かどうか」でも述べたように、営業活動などには競争がつきもの。競争相手をだしぬいたり、誇大広告まがいもめずらしくありません。

消費者庁の「誇大表示の禁止」パンフレット一部
消費者庁の「誇大表示の禁止」パンフレット一部

上のような誇大広告は禁止されているといっても、実際にはすぐに違反がわかるような広告をつくる会社はすくないわけで、判定がむずかしいのが現実です。
違反はしたくないが、かといって、できるだけ消費者の目をひきたいのはどの会社も同じ。
もし、業界の事情を知らない新入社員が、自分の世界観だけで自社の広告を「不正」だと決めつけたりしては、会社で苦労するばかりか、かえって偏狭な「善悪」にしばられて柔軟性を欠くかもしれません。
倫理上は好ましくなくとも商慣習上は許されるという場合もあります。
現実に不正の判定をしなければならないときというのは、ほとんどがグレーのケース。子ども時代の単純な「不正」の基準は通用せず、現実社会を生きながら複雑な基準に更新することになるでしょう。
ずいぶん昔、まだ若かった友人が地方から上京して自動車の販売会社に就職したのですが、営業活動になじめずにノイローゼとなり、帰郷して自殺したというケースがありました。
いまとなっては、そのとき答えが見つけられなかったとしても、もっと生きていろいろ経験をつんで世界観が広がれば、そこまで思いつめずにすんだだろうに、と思わずにいられなくなります。
社会や組織や人間関係には不条理があるのも事実です。
その現実のなかで「尊敬すべき世界観」つまりは自分の信念をどのようにつらぬくかを考え、実践するのが人生なのかもしれません。
絶対にゆずってはならないときもあれば、答えをすぐには出せないときもあります。私たちは、そんな現実に向き合って臨機応変に前進していくのです。

ゆずれない価値は守り通す

現実社会にはさまざまなハードルがあります。
乗りこえるハードルがあるからこそ人生が充実するというくらいのプラスの世界観で臨機応変に生きていきたいものです。
ただし、臨機応変といっても、わかっていてあきらかな不正の片棒をかつぐのだけは回避すべきです。なぜなら、世界観はすべての知識と経験がヒモづけられた頭のなかのネットワーク全体、人格そのものといってよいものですから、もしかたくなに拒否してきた考え方(不正)を無理に受け入れた場合、アリの一穴のごとく、人格を土台から崩壊させる危険さえあります。
あきらかな不正を平気でやれるのは、世界観も人格も崩れ、自分を律する軸を失って生き方がぶれきった人です。たとえ犯罪に手をそめなくとも、その精神は犯罪者と同じ。周囲の支えを得られる人ではありません。
尊敬に値する世界観というのは、「人を尊重し、信義に厚く、約束を守ることや人を喜ばすこと」をお題目にするのではなく、臨機応変に現実を生きながら、それらの価値を守れるだけの見識もそなえていかなければならないでしょう。

人の言動を鏡とする

世界観というのは、言動のはしばしにあらわれます。
リオ・オリンピックが終わったタイミングなので、それにからめた例で本稿を閉じたいと思います。
男子400メートルリレーの銀メダルが日本中をわかせましたが、これについて人類史上最速といわれるウサイン・ボルトは次のようにコメントしました。
「彼らのよさはチームワークだ。3月からバトンパスの練習をしていたらしいし、2、3回しか練習していない僕らとは比較にならない。選手どうしが信じ合っていたからこそ銀メダルが取れたと思う。このまま練習を続けていけばより世界レベルになれると思う」と。

※下はNHKの広報用動画の画面。動画を見るには再生ボタンを押して「YouTubeで見る」をクリック。2分34秒。動画はストップしないとその後もえんえんと続くのでご注意ください。

ボルトのコメントに対し、ネット上にさまざまな投稿が見られました。

①「なにこのあからさまに馬鹿にした発言」
②「①のおまえ、ひねくれてんなぁ」
③「ありがとうボルト」

意見、感想がいろいろあるのは当然。人によっては①~③のすべての気持ちがあるかもしれません。ただ、①の気持ちが心の中にしめる割合はすくないのが普通でしょう。匿名で投稿できるので無責任な発言がみられるネットですが、それでも①のような投稿をするのはごく少数です。
①のような投稿をする人の世界観というのは、②の「ひねくれてんなぁ」が言い当てています。偏狭な世界観。
ボルト自身無自覚に上から目線になって語ったかもしれません。それが気にさわって①のような投稿も出てくるのかもしれませんが、たとえそうであるとしても③のように投稿したくなるのがより広い世界観ではないでしょうか。
①は、若気のいたりか社会経験のすくない人、すくなくとも本稿で述べてきた「尊敬に値する世界観」の持ち主ではありません。ぶれることは試行錯誤にも通じるので、いつも悪いことだとは思いませんが、①の投稿をしてしまう人の世界観というのは、土台に欠陥があるようで、人生がぶれすぎないように祈りたくなります。

ぶれない自分になる2/3

ぶれない人の条件

ぶれないにも2タイプある

「あの人はぶれない」というときの「ぶれない」には、尊敬の念がこめられています。この尊敬される「ぶれない」の辞書的な意味は、「態度、考え方、方針などが一貫している」です。さらに、「何に対して」ぶれないのかに着目すると、次の2タイプが考えられます。

①自分の設定した目標にまい進しつづける姿勢

やりたい、なりたいと思ったことに向かいつづける姿勢です。政治家なら公約を誠実に実行する、経営者なら経営理念を守りとおす、自分は○○に成ると思ったら成るためにまい進しつづける、そんな姿勢です。

②物事全般への一貫した姿勢

人生に向き合う姿勢。主義主張や目標だけでなく、人生のさまざまな問題に対して泰然自若としてつねに前向き、解決困難に見える問題にもあきらめずに向かっていく姿勢です。

メダリストに見るぶれない姿勢

アスリートには、オリンピック・メダルを目標にしてぶれずに努力しつづける人がいます。目標どおりメダリストになったアスリートには、ただただ感服するしかありません。
メダリストたちが、すくなくとも①タイプのぶれない人であるのはまちがいないでしょう。

オリンピック陸上レース
オリンピック陸上レース

しかし、ずばぬけた努力ができるメダリストなのですから、その後の人生も順風満帆となりそうなものですが、現実はそうともかぎりません。なかには生活が破たんした人もいれば、犯罪をおかした人もいます。
そうしたメダリストは、目標に向かってぶれない①の人ではあるけれど、人生にぶれない②の人ではなかったといえます。もちろん、なかには今から挽回する人もいるとは思いますが。
メダル以後がパッとしないメダリスト、メダル以後も目標を見つけてぶれずに生きていくメダリスト。後者は①だけでなく、②も身につけているわけです。
①だけのオリンピック・メダリストがいわば人生のメダルもとれるとはかぎらないという事実は、②のように人生でぶれない生き方をしていくには、努力する能力以外にさらに必要なものがあることをしめしています。

周囲へ感謝するメダリスト

努力する能力以外に必要なものとは、前の『ぶれないメカニズム』で述べたとおり「広い世界観」がそれに当たります。
では、①だけのメダリストと①も②もそなえたメダリストの世界観には、具体的にどのようなちがいがあるというのでしょうか。
世界観は目に見えないので、そのあらわれである言動のちがいを見るしかありません。過去の記録を検証したわけではありませんが、長年の観察からたしかなちがいを感じるのは、①も②もそなえたメダリストというのは、メダルという目標だけでなく、応援してくれる人々への感謝や支援に応えたいという気持ちが強く、それが目標へ向かわせる原動力にもなっているらしいことです。
社交儀礼ということもあるので、かならずしも感謝の言葉の多いメダリストが広い世界観の持ち主とはかぎらないでしょう。
ただ、感謝の言葉が何気に出てくる人は、周囲の応援に応えることを喜びとする(価値とする)世界観の持ち主であるのはまちがいないと思います。逆に、感謝の言葉がほとんど出てこない、あるいは心のこもっていない人というのは、いまだ自己中心的な偏狭な世界観の持ち主なのではないでしょうか。
ちなみに、私たちはすくなくとも子ども時代はかなりに自己中心的です。

リオ・オリンピック
リオ・オリンピック

リオ・オリンピックのメダリストたちは、まるで打ち合わせしたかのように全員が応援してくれた方々へ感謝の言葉を口にしました。そのとおりの思いがあれば、今後も目標に向かってぶれることのすくない人生になるのはたしかと思います。
個人的には、バドミントンの奥原選手が試合後に欠かさず深々と礼をする姿( link:産経ニュース写真)を見ているとき、この方はバドミントンにかぎらず、将来もぶれずに生きていくのだろうなあと思わずにいられませんでした。
以下、「ぶれない人」とは②タイプの人で、その人が目標を設定した場合は①タイプにもなる人のことを指します。

泰然自若・柔軟性・多様性

ぶれない人の言動には、周囲への感謝のほかにもいくつか特徴があります。

・泰然自若としている――ものに動じない。

・柔軟性がある――長年のやり方にこだわらずに柔軟に対応します。主義主張を他人におしつける頑固者とはちがいます。主義主張がぶれないだけで何も行動せず、一歩も前進しない人をぶれない人とはいいません。

・多様性を受け入れられる――柔軟性に通じますが、ほかの人の意見や考え方にも耳を傾けられる人です。でなければ、いつまでも壁を乗りこえられず、いずれ一貫した姿勢もうやむやになるでしょう。

「ぶれない」でいられるのは、肝心なとき冷静に問題に立ち向かい、解決していく能力があるからです。時間がかかっても、試行錯誤をくりかえすにしても、いずれ解決するという自信や信念があるのです。

ぶれなければ問題解決能力がそなわる

知り合いに、ぶれずに事業を立ち上げている経営者がいます。
その方は脱サラして借金もして、いくつも商品を創って販売したのですが、赤字がつみあがるだけ。資金も底をつき、社員へいつ解雇を言いわたそうかと悲壮な日々が続くなかでも、在庫になっている商品を手作業で包装しなおしたりして、あきらめずに工夫をかさねました。
そして、資金繰りに青息吐息という状態を何年もつづけたのですが、気がつけば商品が大ヒットして苦境を脱し、いまは新しい商品を次々に開発しています。
成功の軌道に乗ったから思うのではありません。脱サラしたときからずっと見ていて、「この人はきっとうまくいく」と確信のようなものがありました。本当にぶれない人というのは、全身全霊で目標に向かっていくぞという思いと、あらゆる試行錯誤もいとわないというものの見方、世界観が伝わってくるのです。
先にあげたぶれない人の特徴は、この方の特徴です。

ぶれなくなる方法

どうすればぶれない人になれるのか――ここまで述べてきた言葉で言いかえれば、「周囲への感謝の念が強く、恩義に応える心を持ち」「物事全般への一貫した姿勢」と「自分の設定した目標に向かいつづける姿勢」をそなえ、「泰然自若として、柔軟性があり、多様性を受け入れられる」人にどうしたらなれるのかです。
事は、まったく簡単ではありません。
実用書的に、ぶれない人になれるノウハウやお手軽な方法を探すのは徒労に終わるでしょう。
なぜなら、ぶれないのは考え方ひとつの問題ではなく、考え方すべて、ものの見方すべてが、ぶれないその人をつくっているからです。
先の経営者のようになろうと思っても、彼と自分はちがう人間です。彼のものの見方、考え方の一部だけを取り入れただけでは、決して彼と同じにはなれないのです。学ぶのはいいのですが、模倣するだけでは越えられない壁があります。
本当にぶれない人になる方法はただ一つ。
ものの見方、世界観を“みずから”広げることです。
これは一朝一夕になせるものではなく、日々の経験や学びの姿勢から蓄積されていくものです。いろいろな人に会い、経験し、学び、ものの見方をはぐくみ、それを自分の骨肉としていくしかありません。
そうやってみずからが広く深い世界観をはぐくむうちに、おのずとその世界観のなかにぶれない自分が定まっていきます。

尊敬に値しない反面教師

最近、公私混同問題で辞職したM知事という方がおられます。
M氏のことは30年ほど前からテレビの討論番組で見ていましたが、当時から権力志向が強く感じられる方でした。
結果的に大臣や知事になれたという点では、ぶれずに自分の目標を達成したかに見えなくもありませんが、「ぶれる」とか「ぶれない」ではなく、ただの執着心だったとみるのが的確のようです。

東京都庁(©Markus Leupold-Löwenthal 2005)
権力の象徴? 東京都庁 (©Markus Leupold-Löwenthal 2005)

M氏は「国民の上に立つ者は、 おごりや贅沢をいましめ、 出費をおさえて質素をむねとし 、仕事に励んで国民の手本となり・・」と西郷隆盛の遺訓を引用して職員に訓示をたれたそうですが、 その考え方が氏の世界観を形作るものでなかったのは、自分の贅沢や趣味、私生活のために公費をつかっていたことからあきらかです。
立派な言葉をならべるだけで、中身がないどころか、正反対の考え方、ものの見方、世界観を持っていたわけです。ぶれなかったとすれば、黒を白と言いくるめようとする傲慢さや目的のためには手段を選ばないという考え方。
とても“尊敬に値する”ぶれない人ではありません。むしろ、人としての生き方はぶれまくり。いえ、人としての生き方になっていないといったほうがよさそうです。
いつわりだらけの世界観というのは、広く深い世界観とは対極にある偏狭なしろものであるにちがいありません。

リスペクトがなければ砂上の楼閣になる

一人ひとりの世界観はちがうとしても、そのあり方には基本と原則があります。
M氏のように、尊敬に値しないような生き方をしてしまうのは、周囲への感謝の念がなく、人を人とも思わない、自己中心的で偏狭な世界観のなせるわざです。
結果的に、M氏は社会的な制裁を受け、その権力志向は打ちくだかれてしまいました。自己中心的な世界観の人は、表面的に目標を達成したかにみえたとしても、それは砂上の楼閣です。
本当にぶれない人というのは、多くの人に支えられた確固たる楼閣を築ける人でしょう。M氏には一から出直してその見本をみせてほしいものです。
社会のなかで生きる私たちがふれずに目標に向かっていくには、尊敬される世界観を持つことが必要です。なぜなら、自動運動の黒点の実験が象徴しているように、“周囲”の支えができてはじめて人はぶれないでいられるからです。
そして、力強い周囲の支えというのは、その人が尊敬に値するからこそ生まれるのではないでしょうか。

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ぶれない自分になる1/3

ぶれずに生きるには広い世界観が必要。そんな世界観はどのように育てられるのか、というのが本稿のテーマ。

ぶれないメカニズム

居場所をもとめて動きまわる点

私たちの知覚には、「自動運動」という不思議な現象があります。
この現象は、白紙とペンさえあれば、次のようにして簡単に体験できます。
ためしてみれば、これほど自分の知覚は曖昧なのかと驚かされることうけあいです。
まず、広くてきめのこまかい白紙の真ん中に、ごく小さな黒点(0.2mmくらい)をえがきます。きめこまかい白紙がよいのは、余計な情報をなくすため、できるだけ紙の表面の凹凸やしわがないほうがよいからです。
次に、視野をおおうほどその白紙を目に近づけて黒点を凝視します。
背景を真っ白にしてほかに何の情報もない状態で黒点だけを注視するわけです。
すると、何がおこるのか――「黒点が生き物のように動きまわる」のです。

簡単にできる自動運動の実験
簡単にできる自動運動の実験

黒点が動きまわるのは、もちろん物理的に動いているからではありません。
眼球運動によるものでもありません。
動きのパターンもぶれ幅も個人差がありますが、ほとんどの人はキツネにつままれたような感覚になることでしょう。

世界は頭のなかで加工される

自動運動は、「自分の外の世界=外界」はそのまま頭のなかにコピーされるのではなく、頭のなかで“加工される”ことをしめしています。物理的な運動でもなく、眼球運動でもないのに、頭のなかでは動いているわけですから。
つまり、自動運動は外界でおこっている現象ではなく、頭のなかでおこっている現象。
原因については諸説あるようですが、ここで注目したいのは、結果として「周囲に何もない1つだけの情報は、知覚を不安定にする」という事実です。
そして、さらに興味深いのは、黒点の近いところに線をえがけば、ぶれ方が小さくなり、四角で囲むとほとんど動きがとまってしまうことです。

安定した自分は“周囲”がつくる

自動運動の実験は、まるで“ぶれる人”と“ぶれない人”のちがいを見せてくれているかのようです。
黒点を見るのは頭のなかの“自分”、その自分が“頭のなかの世界”に黒点を位置づけようとするのですが、黒点以外に情報がないので、比較するものをもとめて自分の視点が定まらない状態が自動運動に表れていると考えられます。
自動運動する黒点は、視点の定まらない自分の分身、アバターのようなものです。
であれば、自分のアバターが四角のなかで安定するのは、何を意味しているのでしょうか。
答えは、自分(黒点)は周囲(四角)を基準にして位置づけられてはじめて安定する、つまり、“周囲”がなくては、何人も安定できないということでしょう。

“周囲”は頭のなか

自分を安定させる“周囲”は、条件が制限された実験であれば“四角”という図形でよいかもしれませんが、普段の私たちの心や精神を安定させる、四角に相当する“周囲”とは何なのでしょうか。
身の回りの見慣れた景色や建物、部屋、使い慣れた機器、そして携帯やスマホで知人や家族といつでもコミュニケーションがとれる環境、といったものはまちがいなく“周囲”に相当するでしょう。
当たり前にあるそれらの“周囲”が、私たちにとってどれほど精神安定剤になっているか、いきなり一人で見知らぬ外国の街に立たされたときの不安を想像すれば、そのありがたさに感謝したくなります。
しかし、そのような“周囲”があっても、人間関係や仕事や将来への不安で自分の言動が定まらなかったりすることがあります。
ぶれる自分がいたりします。
周囲の環境がいかに恵まれているように見えても、それだけで人は精神的に安定した自分になれるとはかぎりません。
金持ちが幸せとはかぎらないのはその一例。
逆に、周囲の環境が恵まれていないように見えても、安定した自分、ぶれない自分、目標にまい進して充実感があるという意味で幸せな自分、である人もいます。
とどのつまり、自動運動が外界の現象でなかったように、自分がぶれたりぶれなかったりする原因は、外界にあるのではなく自分の頭のなかにあるのです。
“周囲”とは、外界ではなく、頭のなかにあって自分をそのなかに位置づける背景となる“世界”にほかなりません。つまり、自分の世界観や社会観や人生観。
本稿では以下、社会観や人生観も世界観の一部として述べます。

世界は成長する

世界観とは何でしょうか。
一言でとらえるのはむずかしい概念ですが、言動が不安定な子どもと大人の“世界”をくらべるとイメージしやすいかもしれません。

世界を君の手に
世界を君の手に

たとえば、幼い子にとっての世界は、ごくせまい範囲にかぎられます。自分が行動できる範囲、接する人だけが世界のすべてです。
それが20歳くらいなると、世界や社会や人生の知識を身につけ、そうした世界=世界観のなかに自分を位置づけられるので、子どもよりは安定した言動をとるようになります。
しかし、それは情報としての知識のまま、まだ経験や感情による意味づけは深くありません。
社会人としての経験をかさねることで社会の意味を深め、それまでの時間の延長としか認識していなかった人生の意味も、しだいに深く理解するようになります。
子どもが大人に“成長する”という言い方をしますが、その場合の成長とは、その人なりの世界観が育っていき、その世界観のなかに自分を位置づけていく過程だともいえます。

自分はどこにいるのか

だれでも世界や社会や人生の全体的なイメージが何かしらあると思いますが、そのイメージのなかで自分はどこにいるのでしょうか。
空間的な位置であれば地図上にイメージできますが、それだけが“世界”のなかの自分だと思う人はいないでしょう。
世界中でいま現に生きている人々の生活や文化、思いを感じ取り、そのなかの一人として自分をイメージするのが普通かもしれません。
たとえていえば、地図上の一地点に自分がいるだけの認識は子供の世界観。自分は多様な人々や生活や文化に満ちた世界のなかの一人であるという認識が大人の世界観です。ただし、人それぞれの世界の広がりや意味はちがいます。

頭のなかの世界・イメージ
頭のなかの世界・イメージ

視点を変えれば、空間や時間の座標だけではなく、信用や社会的地位、信条、教養、目標、美、人への思いやり、尊敬・・・多様な価値を座標とした場合、その座標のどの位置に自分がいるのか、その座標と自己認識が世界観と考えてもよいかもしれません。

ぶれない自分がいる世界

社会はただの“人の集まり”ではなく、人生はただの“生まれてから死ぬまでの時間”でもなく、意味に満ちた広がりと時間です。
自分のアバターのごとき黒点が単純な四角の図形で安定するというのは、認識のしかたについての基本原理。それは認識のメカニズムです。
“ぶれない自分”とは、そうした認識のメカニズムを土台として経験や知識を取りこんで成長してきた“自分”。
その自分を安定させるのは、四角のような単純な図形ではなく、生き物のように広く深く成長する、意味に満ちた世界。
より広い世界観のなかに位置づけられている自分が“ぶれない自分”です。

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