社会の舞台裏3/3

•外からシンプルに社会を見る
•社会は欲求の交換システム
•社会のルールから生き方を読む

社会のルールから生き方を読む

社会を律する幻想ルール

私たちの欲求が社会を動かしているのは間違いないとしても、一人ひとりが欲求をそのまま自由奔放にかなえてよいなら、社会はまたたく間に野生動物の世界にもどってしまいます。
逆にいえば、社会には野生動物の世界と同じにならないようにするしくみがあるということになります。

人とライオンの日常生活の違いは?
人とライオンの日常生活の違いは?

上は、左がどこにでもある“人”の日常生活、右が“野生動物”の代表選手のようなライオンの日常生活。
人もライオンも欲求を満たそうと日々をおくっているのは同じ。にもかかわらず、両者の日常生活には異次元の壁があるのが見てとれます。
明らかに、人の社会は弱肉強食とは異なる秩序で動いています。ライオンの集団にも本能的な秩序はありますが、別次元のものであるのは写真を見れば一目瞭然でしょう。
何がどうちがえば、この差が生まれるのか。
それは、私たちがただの“人の集まり”ではなく、「頭のなかにある社会」あるいは「言葉のネットワークで意味を与えられた社会」のなかで生きているからです。その頭のなかで意味を与えられた社会が採用しているルールにしたがい、私たちは生活しているわけです。
ライオンは、物質的、無機的なリアルな世界とじかに向き合っています。ライオンから見れば、人は頭のなかの実体のない幻想世界でリアル世界を覆い、幻想世界のオキテにしたがって生活している、ヘンな存在に見えているのかもしれません。

コミュニケーションイメージ3頭のなかのルール
コミュニケーションイメージ3頭のなかのルール

2方向のルール

社会のルールは、抑制と促進という2つの方向性を持っています。
秩序を乱す人を排除する「抑制ルール」、秩序に貢献する人を尊重する「促進ルール」、この2つが秩序をつくる両輪です。
より多くの人の欲求をかなえられるように社会が進化してこられたのは、2つのルールがブレーキとアクセルのようにして社会をコントロールしてきたから。
歯車のたとえでいえば、抑制ルールは、社会の動きをさまたげる歯車を修理したり、排除したりするための基準。促進ルールは、社会の動きを活発にする歯車に油をさしたり、より適したポジションに配置したりするための基準ということになります。
抑制ルールは、倫理、道徳、法律などの社会規範。
社会的な制裁をあたえ、一定の行動を禁止して社会をコントロールします。
「人を殺すな」
「盗むな」
「だますな」
といった、刑法に書かれているものから、弱い者をいじめるな、公共の場を乱すなといった、どこにも書かれていなくても、慣習的に人々の心を律する倫理や道徳です。

発展を促すルール

刑法に抑制ルールがあるなら、よく刑法に対比される、民法や商法などの法律には促進ルールがあるでしょうか。あるいは、経済の活性化のために政府が行う金融政策は、人々の欲求をかなえるものなら、促進ルールといえるでしょうか。
基本的には否。
ここで考えているルールは、頭のなかにあって人が自らしたがう基準を指すからです。
多くの法律や政策は、行政のアクションプラン。法律や金融政策をつねに心にとめて動いている人は、その関係者だけでしょう。
ただし、刑法や民法のかなりの部分は、人が自然にしたがっている慣習法を明文化していますから、抑制ルールや促進ルールといえます。
民法のなかの促進ルールとは、たとえば、「契約は意思表示の合致によって成立する」「成年に達しない子は親権に服する」「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない(信義誠実の原則)」といった、民法を知らなくとも普通の人なら当たり前にしたがっている規定です。
ちなみに、民法の規定は、社会常識で生活していれば、おおむねそれを保護するようにつくられています。

「ものの見方」がルールをつくる

私たちは個々のルールをいちいち覚えずとも、それらがどのようなものの見方から生まれているかを理解してさえいれば、臨機応変にルールにしたがった行動を自然にとれます。行動のたびにルールをチェックする人はまずいないでしょう。
実際、刑法や民法を知らなくとも、一般人が法に触れない生活をしているのは、ルールを生み出している精神、つまり、ものの見方を身につけているから。
抑制ルールの萌芽は、人類が集団生活をはじめた新石器時代、1万年以上前までさかのぼれるでしょう。
「人を殺すな」「盗むな」「だますな」といった抑制ルールは集団生活の維持に必須です。
はじめ慣習的に社会を規律していただろう抑制ルールが明文化されたのは、わずか数千年前。「目には目を、歯には歯を」のハムラビ法典は紀元前1800年ごろ。
その後、哲学や宗教の発達とともに、抑制ルールを説明する原理として「人を尊重する」といったものの見方、価値観が生まれたと考えられます。
もっとも、ルールが先かものの見方が先かは、いまの私たちの人生には無関係です。
現代人は、生まれたときから「人を尊重する」ものの見方のなかで育てられ、考えずとも、「人を殺すな」「盗むな」「だますな」を当たり前のこととして生きているからです。
もちろん、当たり前にしたがえない人も少数いるわけですが、そうした人を抑制するためにこそ、ルールやものの見方が歴史のなかで醸成されてきたわけです。
さて、では促進ルールのものの見方とは何でしょうか。
答えは民法に書かれています。
「信義誠実の原則」(信義則)がそれです。

ものの見方とルール
ものの見方とルール

人生を左右する信義則

信義則というものの見方、原理は、私たちの人生に重大な影響をおよぼします。
じつは、この「社会のしくみ―社会の舞台裏」を書こうと考えた最大の理由は、信義則が人生や社会のなかでもっとも重要であることを述べたいためでした。
刑法などの抑制ルールは、その名のとおり、社会活動に対して消極的で、社会のマイナス面・暗黒面への対症療法のような働きをするものです。
決して社会を活性化し、成長や進化を目的とするルールではありません。
抑制ルールは、社会の萌芽期、「殺されては困る」「盗まれては困る」といったさし迫った状況から生まれてきたものでしょう。
抑制ルールの指導原理になっている「人を尊重する」というものの見方も、社会を活性化するという点ではあまり意味がなさそうです。
人を尊重するというのは当然として、問題はその先、現実にお互いの欲求がぶつかり合うような状況に直面したとき、どう解決していくのかです。
「信義則」というものの見方は、社会を拡大、発展させる原理として社会の萌芽期から採用されつづけています。お互いの欲求がぶつかり合うような状況をバランスよく解決し、発展的な方向を目指す原理として、その内容を洗練させてきたとみられるのです。

社会のあるところ信義則がある

社会が形成され始めたころ、人と人がコミュニケーションによる結びつきを深めるにつれ、信義則にかなったやり方が自然に生まれていたのはたしかです。なぜなら、コミュニケーションは、信義則がはたらかなければ深まらないからです。
奪おうとする人が多い“人の集まり”では、コミュニケーションは深まりようがありません。盗人と、だれがコミュニケーションをしたいと思うでしょうか。
コミュニケーションは、“物々交換”の広がりとともに深まりをみせ、言葉や概念の発達を促したことでしょう。
物々交換は、相手への信頼が前提です。
相手が持っていて自分が欲しい物を得るために、相手がほしがっている物と交換する、「たったそれだけのこと」に見えますが、これは相手の物を奪わないという相互の信頼でなりたちます。
コミュニケーション・信頼・物々交換、これはセットです。
セットが初めて成功したとき、人は信義則の扉を開いたのです。
山の民が毛皮をもってきて、海の民の干し魚と交換する、ここにはお互いの品物への信用や自分の物を奪われないという信頼があります。
信義誠実の原型です。
そうした信義則によって結ばれた人の集まりが“社会”となり、その社会のなかで信義則に反する者を排除するために抑制ルールが生まれてきた、それが真相ではないでしょうか。

社会で生きるための原理

信義則は、現代社会でも活きています。
いまでも社会を発展させる原理でありつづけています。民法はいうにおよばず、政治や経済でも、ビジネスでも人間関係でも、です。
圧倒的多数の人は、一生、刑法的な抑制ルールのお世話になることはないでしょう。すくなくとも抑制ルールに反しない程度には、当たり前に「人を尊重する」ことができるからです。
であれば、私たちが優先課題とすべきは、信義則の具体的な姿を知り、実践することではないでしょうか。
もちろん、抑制ルールのものの見方「人を尊重する」も大切なのはいうまでもありません。「人を尊重する心があるから、相手に対して信義をつくし誠実に応じる」ともいえますから。ただ、信義則をよく知らなければ、人を尊重することの具体的な意味も、そして本当の意味もわからないのではないかと思います。
信義則、信義誠実に相手に応じる、この原理は具体的に人生のどのような局面でどのように発揮され、人生にどれほどの影響をもたらすのか・・・このテーマについては、項をあらため、「(仮)社会で成功するための基本と原則」という別タイトルで取り上げます。

社会の舞台裏2/3

•外からシンプルに社会を見る
•社会は欲求の交換システム
•社会のルールから生き方を読む

社会は欲求の交換システム

欲求がなければ始まらない

私たちが動物と同じ欲求を持ち、それをかなえようとする存在であることは、社会を理解するための基本のきです。全ての人の活動は欲求から発しているのですから。
食欲、睡眠欲、性欲、好奇心など、ほかの動物と共通する本能的な欲求。さらに、それらの欲求を社会のなかで間接的に満たすための金銭欲、名誉欲、権力欲、自己実現欲といった社会的な欲求。
それら全ての欲求を、私たちは社会のなかでほかの人と関係しながら、コミュニケーションによってかなえようとします。

コミュニケーションイメージ2自我のエネルギーは欲求
コミュニケーションイメージ2自我のエネルギーは欲求

欲求こそは行動のエネルギー。本能的な欲求と社会的な欲求が一人ひとりの人生を歩ませ、それが大きなうねりとなって社会を動かすエネルギーとなっています。

欲求の歯車が社会を動かす

欲求と社会の関係をシンプルにイメージする1つの方法は、一人ひとりを歯車にたとえてみることかもしれません。

欲求の歯車で社会をイメージ
欲求の歯車で社会をイメージ

一人の歯車を動かす力は、その人の欲求。欲求をかなえるために、一人の歯車はほかの人とのつながりをもとめます。
一人の歯車がうまくかみ合う歯車をもとめて出会いをくり返すうちに、いくつもの歯車がつながってネットワークとなる、ネットワーク同士がかみあってさらに大きなネットワークの一部になる、そうしたネットワークが集まって“社会”全体が動いている、というイメージ。
もっとも、人は変化するので形を変えられる歯車、あまり歯車の形を固定してイメージしてもよくないでしょう。
私たちはコミュニケーションを通じて多くの人とつながり、欲求をかなえようとします。そうした一人ひとりの欲求実現の行動が歯車のように連動して社会全体が動いています。
欲求というエネルギーに焦点を当てれば、複雑に見える社会の動きも、すっきり見える部分が多くあります。

ベクトル化すれば正体が見える

社会のしくみを理解するには、いくつもの角度から社会をイメージして、その働きや傾向や原理を総合していくことがポイント。
総合することによって、「外から社会を見る」で述べた社会の概念がたしかな中身になるからです。
たとえば、欲求を“ベクトル”として見るのも1つの角度。歯車のたとえとは、またちがった社会のありさまが見えてきます。

from金沢工業大学「KIT Mathematics Navigation」
from金沢工業大学「KIT Mathematics Navigation」

Aという人の政治的な欲求、この場合“傾向”という言葉のほうがわかりやすいでしょうか。Aの政治的傾向をベクトル a 、Bという人の傾向をベクトル b とすれば、a+b=c という二人を総合したベクトル c は二人1組の政治的傾向を反映しています。
同様にして、一人ひとりのベクトルを総合してできる社会全員のベクトルは、いわば“社会ベクトル”です。
社会ベクトルには、社会全体の傾向が反映されます。
たとえば、主要政党を評価して10点満点で点数をつけてもらうアンケートをしたとします。自民党X点、公明党Y点、民進党Z点・・・と。
この点数を成分(X,Y,Z・・・)としたベクトルを考えます。ベクトルの成分は何次元あってもかまいません。
そうしてできる回答者一人ひとりのベクトルを総合してできるベクトルは、アンケートに回答した集団全体の政治的傾向を表しています。

ベクトル分析のメソッド

政治的傾向だけではありません。
さまざまな欲求、関心事、テーマごとにベクトルを考えることができます。
ある人のいくつもの性格的傾向に点数をつけ、それを成分にしたベクトルを考えれば、その人の“性格ベクトル”です。それを総合した日本版社会ベクトルは、日本人の国民性に通じるでしょう。
また、洋服の好みにたいする傾向とか、料理にたいする傾向とか、アンケートで質問できるようなことは全て回答を点数化し、各質問項目の点数を成分としてベクトル化できます。
そうしたベクトルをある集団全員について総合すれば、その集団の傾向をつかめることは政治的傾向で述べたとおりです。アンケート調査では、実際にそうしたやり方で分析をおこなっています。
欲求や傾向をベクトルとしてとらえることの優れた点は、さまざまな社会現象の総合と分析を客観的にたやすくできること。
たとえば、“ポケモンGO”に熱中しているAグループとまったく興味を示さないBグループがある場合、両グループの性格ベクトルの成分を比較すれば、どのような性格の人がポケモンGOにはまりやすいかの分析ができます。
欲求=ベクトルの見方は、社会全体の動きから、企業や個人の動きまで、何の指針もなく漫然とながめるのとちがい、起こっている現象を総合したり分析したりすることで、クリアに理解するのに役立ちます。
現実の生活では個人がアンケート調査するなどありえませんが、ベクトルで人や社会を見ることは、社会のしくみを理解しやすくします。

経済の実体は欲求の交換

経済活動には、人々の欲求がストレートに表われています。
商品やサービスの売買、仕事の受発注、いずれもその本質は、ほかの人の欲求をかなえることで対価(お金)を得て、その対価を自分の欲求をかなえるために消費することにあります。
ベクトルでたとえれば、お気に入りの服や話題のサプリメントなどをもとめる消費者の欲求はいわば特定商品へ向けられた購買ベクトル、そのベクトルは特定商品を購入して満たされます。店員のほうは、給料をもらってそのお金でいろいろなベクトルを満たしたいがゆえに、商品を売ろうとする販売ベクトルを持っています。特定の商品を1つ売っただけではその販売ベクトルがすこし満たされるだけ、というイメージになるでしょう。
要するに、私たちがお互いの欲求=ベクトルを満たすために商品やサービスをやり取りするのを総合したものが“経済”です。

欲求が科学技術を発展させてきた

商品やサービス、仕事は、それが相手の欲求をかなえなければ対価を得られないわけで、商品開発やマーケティングとは、つまりは人の欲求をいかにしてかなえるかを考えること。
50年前には影も形もなかったパソコンやスマホ、50年前にあったブラウン管の白黒テレビはいまでは液晶のカラーテレビに変身しました。それは科学技術が自然に進歩したからではなく、欲求の新しい対象、つまり新商品をつくるために人間社会が科学技術を進歩させたのだ、といったほうが正解でしょう。
また、経済学に拡大再生産という言葉がありますが、消費財や生産手段ではなく、欲望(欲求)の拡大再生産といったほうが、本質を言い当てています。
現代は多様な商品やサービスであふれ、万能の交換価値を持つお金によって何でも手に入れられるので、事の本質を見失いがちです。
じつは、システムが複雑になっただけで、欲求をかなえるという点では物々交換で生活していた縄文時代と変わっていません。
ただし、欲求をかなえようとするのは動物と同じですが、コミュニケーションによってかなえなければならないのが、社会に生きる“人”の宿命です。

NEXT:社会のルールから生き方を読む

社会の舞台裏1/3

•外からシンプルに社会を見る
•社会は欲求の交換システム
•社会のルールから生き方を読む

外からシンプルに社会を見る

人生の舞台

仕事や人間関係、お金のこと・・・人生の問題の全ては“社会”のなかで解決すべきことばかりです。社会はまさに人生の舞台。もし、その舞台のしくみを理解していなければ、自分が何を演じているのかさえわからなくなるかもしれません。
「社会は大きくて複雑で難解、社会のしくみなんて知ろうとするだけ無駄」とあきらめては、自らハンディを背負うようなもの。
政治、経済、文化、科学、教育、企業、流通、商品、事件事故・・・細かく見ていけば確かに迷路に入りこみそうですが、社会のなかで生きていくのに、おさえたい基本と原則、ものの見方はあります。
関心を持ちつづけ、あきらめさえしなければ、だれでも社会のしくみが「わかった!」と思うときが何度もおとずれます。そんなときが「目からうろこ」。
わかってしまえば「なんだ、そんな簡単なことだったのか!」というのが相場。でも、わからないうちは、人生の問題が壁のように立ちはだかって途方にくれたりするのです。
とにもかくにも、社会のしくみへGO!

宇宙から社会を見る

社会のしくみをとらえるには、外から社会を眺める、つまり客観視する必要があります。
社会のなかで当たり前に生きる私たちは、普段、“社会”を意識しません。社会のしくみといわれたところで、何から考えたらよいのか見当がつかなくて当然。
そこで、まず考える“対象”とするために、社会の外に視点を移してみましょう。
内側からは見えなかった景色が見えてくるはず。水槽の中の金魚が自分の住んでいる世界を眺めるには、水槽の外に出なければなりません。
現代人が幸いなのは、人間社会をはぐくむ地球を宇宙から眺められるようになったこと。人類は、いまやだれでも映像を通して自分たちの存在を俯瞰できます。
俯瞰しただけで客観視とはいいませんが、視覚的なイメージから受ける強烈なインパクトは、ものの見方を変えるのに役立つでしょう。

150万㎞かなたの社会

下の写真は、地球から太陽に向かって150万㎞の距離から撮影されたもの。

2015年7月16日アメリカ海洋大気庁のDSCOVR衛星撮影
2015年7月16日アメリカ海洋大気庁のDSCOVR衛星撮影

「人間が存在する光景のなかでこれ以上に壮大なものはない!」という映像。
宝石のような地球の手前にはモノトーンの月、まさに生命と物質の象徴です。
いまのところ、地球以外の星々に生命は発見されていません。
果てしない宇宙では、さまざまな物質が一定の法則で変化しつづけているらしいことがわかっているだけ。
地球も、宇宙の物質の法則から生まれて、無限の空間と時間のなかに“ぽつねん”と浮かんでいます。
私たちの社会は、その地球の上で営まれています。

地球生命の異端児

漆黒の宇宙から地球に近づけば、物質だけの世界から一変して、奇跡のような多様性にあふれた生命群が見えてきます。
その奇跡のような生命たちの活動のなかでも、きわだった異質さを見せている生命が、“人”です。
自然環境のなかで生存の闘いをくり広げるだけのほかの生命とちがい、人は建物や機械や道具などの人工物を産みだし、牧畜や農漁業などの食料生産のほか、およそ生存の闘いとは関係なさそうな学問や芸能やらの文化的な活動をおこなっています。
神社の屋根から飛び上がった小鳥をハヤブサが追いかける、その下方では、人々が夏祭りに熱狂する。アリゲーターが小動物を襲う、そのフロリダの湖沼では、巨大なロケットが轟音をあげて青空を上昇していく。

アリゲーターとロケットinフロリダ
アリゲーターとロケットinフロリダ

地上の生命ではハヤブサやアリゲーターの弱肉強食の活動が当たり前。夏祭りに熱狂し、ロケットを打ち上げるのは、地球生命の何億年もの歴史のなかでも、“人”が初めてです。
宇宙から見る“社会”は、人工物に囲まれてほかの生命群とはまったく異質な活動をおこなっている“人の集まり”です。

言葉でつながる生命

人が人工物を産みだし、ほかの生命と異なる活動ができるのは、言葉、つまり“音声言語や文字などの記号”をつかって情報を交換できるからです。
言葉は、最初は単純に物の名前や動きを表すだけだったでしょう。
しかし、時間が経つほど言葉の数が増え、複雑化し、人はほとんどの物事を言葉で表現するようになりました。人のように言葉をつかいこなす動物はほかに見当たりません。
「おはよう」
「朝ごはん何?」
「顔あらった?」
たったこれだけの会話も、ワンちゃんに理解してもらうのは永遠の課題です。
言葉がさらに画期的だったのは、情報交換だけでなく、情報の蓄積も可能にしたこと。
この働きのおかげで、個人が経験したり考えたりした内容を同世代だけでなく、世代を超えて共有できます。
そして、人が増えるほど、膨大な経験と知識が蓄積され、それを共有することで人同士が言葉でつながる世界、“社会”が進化してきたのです。

言葉が創りだした異次元空間

地球上のほかの生命と私たちの決定的なちがいは、共有している情報の内容とその量です。
ほかのほぼ全ての生命は、遺伝子、DNAが持つ体の設計情報を共有するだけですが、人は言葉で表された経験や知識も無尽蔵に共有しています。
しかも、言葉にされた経験や知識は、全てが関係づけられ、複雑で膨大な言葉によるネットワーク空間を作っています。

遺伝子DNAの模式図と図書館の本棚
遺伝子DNAの模式図と図書館の本棚

言葉によるネットワーク空間は、図書館にある数えられないほどの本をイメージするとよいかもしれません。
それらの本のなかの情報は、言葉を通じて結ばれています。たとえば、このサイトには、ほかのサイトにリンクした言葉がありますが、その気になればほとんどの言葉にリンクをはり、ほかのサイトと結べます。
そのような言葉のネットワークは、ひとつの空間や世界として見ることができます。
現代では、インターネット上のサイバースペースにたとえたほうがわかりやすいという人が多いかもしれません。ただし、サイバースペースは、人向けの言葉より、機械向けのプログラミング言語だらけですが。

ただの人の集まりが意味ある社会へ変貌

言葉は物事を表現するだけでなく、さらに、目に見えない、存在もしない、頭のなかでしか理解できない、抽象的な概念も表現するようになりました。
たとえば、”社会”という言葉も抽象的な概念です。
宇宙から見ればただの”人の集まり”にすぎないかもしれませんが、私たちが普段つかう”社会”という言葉はただの人の集まりを意味していません。
頭のなかで“しゃかい”という言葉(音声でも文字でも)をえがいて意味をとらえようとすれば、光のようにもやもやして形にならないものが浮かぶでしょう。
そのもやもや光のようなものが意味のかたまり、“概念”といわれます。
“社会”という意味のかたまり=概念は、“社会”という言葉を中心にしたイメージや感情や言葉のネットワークからできています。いろいろなものがまざって一つのイメージにならないので、もやもや光になったりするわけです。
ネットワークの一部はすぐにとりだせます。
たとえば、社会という言葉から何か一つ言葉を連想してみます。
“ニュース”という言葉を連想する人もいれば、“学校”という言葉を連想する人もいるかもしれません。
さらにニュースや学校からはほかの言葉が連想できることでしょう。同じ人でも、時間がちがえばまったく異なる言葉を連想するかもしれません。
そのように“社会”という言葉(記号)を中心にして広がる言葉と、言葉にともなうイメージや感情のネットワーク全体が、頭のなかにある“社会”です。
じつは、私たちが生きている“社会”は、ただの“人の集まり”ではなく、頭のなかの言葉のネットワークで意味を与えられた社会です。
人と出会ったとき挨拶をするのは、頭のなかの社会では、それが価値あることとみなされているからです。
社会がただの人の集まりであれば、挨拶する必然性はありません。

コミュニケーションイメージ1頭のなかの社会
コミュニケーションイメージ1頭のなかの社会

コミュニケーションは宿命

気がつけば、私たちはいつの間にか人工物に囲まれ、当たり前に言葉をつかった情報交換をしながら、社会的な活動に参加しています。
“言葉をつかった情報交換”とは、個人の生活レベルでいえば“コミュニケーション”です。
コミュニケーションによって進化し、頭のなかに言葉で創られ、意味を与えられている社会。
私たちは生まれた時から、そんな社会の一員として育てられます。
それは、私たちの人生が、人同士のつながりのなかでコミュニケーションをとりつづけなければ成り立たないことを意味しています。

Next: 社会は欲求の交換システム

人を見る基本と原則4/4

•タイプ分けは要注意
•基本と原則「行動を見る」
•基本と原則「反社会的な人かどうか」
基本と原則「真摯な人かどうか」

真摯な人かどうか

積極的に人間関係を築いたほうがよい相手

「反社会的な人かどうか」が避けるべき人を見分ける基本と原則なら、逆に積極的に人間関係を築いたほうがよい基本と原則があります。
これについては、多くの先達がさまざまな指針を残しています。成功や幸福に関する名言集や書籍などをひもとけば、あまりに多く有意義な言葉があるので迷いそうですが、本質を短く、的確に言い表していて、基本と原則とすべきは次の言葉と思います。
「真摯な人かどうか」
少し前に経営学者のピーター・ドラッカー著『マネジメント』関係の本がベストセラーになったのでご存じの方も多いかもしれませんが、ドラッカーはマネージャに必要な資質として「真摯さ」を第一にあげています。
真摯さはマネージャに必要な資質というだけでなく、私たち全てが身につけたほうがよい姿勢であり、物の見方、考え方に通じます。
「将来にわたって支えあえる人間関係を築ける人」あるいは「自分が人間関係を築くべき人」は、間違いなく真摯な人です。

目指すべきネットワーク

真摯さとは、辞書的には「ひたむきに、誠実に事に当るさま」となっていますが、具体的にはどんな言動をとる人でしょうか。
「反社会的な人」であげた傾向と対比させると、次のような言動をとる人だと考えます。

1.現在や未来への前向きな発言が多い
2.失敗や不幸を自分の責任としてとらえる
3.他者への配慮がある
4.約束するのには慎重だが、約束したことは守る
5.人の悪口は言わず、むしろ人を立てようとする
6.弱い立場の人にも、公正に接する
7.気に入らないことでも辛抱強く協調しようとする
8.人への感謝やリスペクトがある
――さらに追加したい項目。
9.プロセスを大切にする
※結果を出すことや目的を達成するために、手順を軽視したり、手段を選ばなかったりするのは、効率的に成功したように見えることがあったとしても、いずれ必ず全てを失います。なぜなら、そのような人の成功は、周囲の人がお金を得るためにだけ協力して成り立っているからです。金の切れ目が縁の切れ目というのはほぼ真実で、プロセスを大切にせずに成功した人には100パーセント当てはまると思います。犯罪して金持ちになったところで、誰も尊敬もしなければ困ったとき助けようとは思わないでしょう。本当に成功や幸せといえる状態は、周囲の尊敬や信用に支えられています。ビジネス上の契約を守るのは当然ですが、「やるから」「待ってて」と軽く交わした約束でも守るのは当然、もしできないなら「……という理由でできなくなったので、そのかわりに……する」と手順をふんで了解をもとめるのが大切です。軽い約束だから、親しいヤツだから、これくらいわかってくれる、と自分勝手な思い込みでそうした手順を省略したりするのは、相手への配慮を欠くことであり、プロセスを大切にしていないということです。尊敬や信用は、プロセスを大切にした蓄積です。

以上の傾向がほぼ全て当てはまる場合を「真摯」とするなら、真摯な人は信頼のおける人です。ビジネスシーンであれば「信用」のある人。
真摯な姿勢は社会人としての素養でもありますが、現実社会でその姿勢をつらぬくのは容易ではありません。
真摯さに焦点が当てられるのも、そうした姿勢をつらぬくことがむずかしいからでしょう。
しかし、であるとしても、私たちは真摯な姿勢を評価する「人を見る目」を持ち、真摯な人たちのネットワークを築き、その一員になることを目指したほうがいいです。
成功者は真摯なネットワークのなかから生まれ、反社会的なネットワークからは決して生まれません。
忘れてならないのは、「人を見る目」だけでは真摯なネットワークの一員とはなれないこと。
自分自身が真摯な姿勢をつらぬいて、はじめてネットワークの一員になれます。

人を見る基本と原則3/4

•タイプ分けは要注意
•基本と原則「行動を見る」
•基本と原則「反社会的な人かどうか」
•基本と原則「真摯な人かどうか」

反社会的な人かどうか

人を評価する目的

人を評価するのは「自分」。
他人の評価を参考にはしても、他人の評価によって自分の行動を決めるのは危険です。
自分がする評価で行動を決めるのでなければ、人生を他人に左右されかねません。
世の中には、人を扇動して利益誘導や政治目的を達成しようとする人々がいます。
自分で人を評価する目を持たなければ、そうした扇動者たちに自分が操られていることさえ気づけなくなることでしょう。
自分の目でしっかり人を評価するには、自分が何の目的で人を評価しようとしているのかを自覚しておくことが必要です。目的をはっきり自覚していればブレることがなくなります。
私たちの目的は明らかです。
仕事で協力しあいたい、仲良くなりたい、何でも話せるようになりたい・・・つまりは、将来にわたって支えあえる人間関係を築きたい、そんな目的で人を見ています。

暗黒面を見ぬく目

将来にわたって支えあえる人間関係を築くための「人を見る目」の基本と原則は、まず「反社会的な人かどうか」です。
これは、人間関係を築くべきでない人、信用できない人をふるいにかけるための「人を見る目」です。
日本人は、とくに人間の暗黒面に対して無防備になる傾向が見られるので、基本と原則として強調したいものです。
誠意を”弱さ”と見る人、それどころかその誠意つけこんで利用しようとする人に対して無防備になっては、悪意の人に力を与えるという意味で、社会全体にとってもマイナスです。
「反社会的な人」というのは、現に罪を犯している人はもちろん、将来、犯罪あるいはそれに近いことを平気でやってしまえる人。法律違反だけでなく社会的なルール、倫理に反することに抵抗のない人。
このような人たちは、「将来にわたって支えあえる人間関係を築ける人」ではありません。
なぜなら、彼らは自分の意にそぐわない人を敵視するだけで、仮に人間関係を築けても短期的な関係にしかならないからです。
「人を見る目」が曖昧、あるいはあまりに寛容すぎると、周囲に反社会的な人が集まっていても気づかないことがあります。
反社会的な人は自分が何者であるかの看板を掲げているわけではなく、毎日のように反社会的であるわけでもないので、評価は簡単ではありません。
犯罪者が捕まると、周囲の人の「とてもそんなことをする人には見えなかった」というコメントがデジャブのようにくり返されますが、それは反社会的な人を見分けることのむずかしさの表れでもあります。
犯罪グループに入ってしまう若者のなかには、「人を見る目」が育っていないがゆえに引き込まれてしまうケースも多いことでしょう。

平気で一線をこえる人

刑法犯は論外としても、「反社会的」という言葉には、グレーな部分がつきまといます。
とくにビジネスの分野では、法律すれすれのことをやらないと儲けられないと言う人も多く、そうした人まで反社会的と評価してよいのか、迷うところです。
広告では、誇張したり不利益情報を隠して消費者をだますような手法が使われたりします。詐欺との境界が曖昧でグレーな部分です。
この場合の反社会性は、社会がどこまで問題のありそうな広告を容認するかにかかっています。
容認されるかぎりは反社会的ではありませんが、越えてはならない一線、社会常識による評価はあります。その一線を“平気で”越えるのは反社会的です。
社会常識というと曖昧に思えますが、過去に誇大広告などで摘発された人のほとんどは、一線を越えることを自覚してやっています。
社会常識による一線というのは、かなりはっきり認識できます。「この広告はあやしい!」と自分が思う広告は、ほとんどの人がそう感じるものです。
“平気で”一線を越えられる社長の会社に長期間在籍したりすると、感覚がマヒし、社員まで反社会的な物の見方をしていたりします。
とくにセールスを担当するビジネスパーソンには、そうした感覚のマヒで悩んでいる方が多いようです。
もっとも、そのように一線を越えないように悩む人が反社会的でないのはいうまでもありません。“平気で”一線を越えられないわけですから。

よく観察すれば見えてくる

具体的に反社会的な人とそうでない人をどう区別すればよいのか・・・見るからにそのスジの方とわかる人はともかく、グレーな部分が多いだけに簡単に見分ける方法はありません。
しかし、次のような傾向の強い人に対しては、警戒心のレベルを上げたほうがよいでしょう。

1.うらみや嫉妬や憎しみの発言が多い
・他人の悪口をいうとき喜々としている
・許さないという言葉をよく使う
・ののしる言葉や人をバカにする発言が多い

2.失敗や不幸の原因を他人や外的要因のせいにする
・過去の不幸をよく話題にする
・自分に関係ない出来事を非難、批判するのに熱心
・責められるとほかの人も同じことをしていると言い訳する

3.自分の欲求にしか関心がなく、他者への配慮がない
・人を心身とわず傷つけることに無頓着
・自分の正しさを主張するばかりで人の言には答えない
・人をからかったりバカにして喜ぶ
・人を喜ばしたり譲ることをしない

4.簡単に約束をし、簡単に約束をやぶる
・その場しのぎの発言をする
・都合の悪いことは忘れたり知らないふりをする
・都合わるい話は論点をずらす
・言い訳が多い

5.悪いうわさを故意に広めるなどして人をおとしめる
※理由がわからず自分が疎外されるときは悪意の人が周囲にいる可能性がある。

6.弱い立場の人には傲慢になる
・いじめに加担する
・自分と関係のない人にも横柄になる
・謝るとかさにかかる

7.気に入らないことがあると暴言暴力をふるう
・都合のわるいことには黙りこむ
・話し合うことがすくない
・自分の決めたことに反対すると怒る

8.感謝しない
・ありがとうと言わない
・人をほめることがない
・生き物への愛着がない

以上の傾向がひとつも当てはまらない人がいるとは思いませんし、幼少期にはある程度あてはまる人も多いかもしれません。しかし、思春期を過ぎても、いくつも当てはまる場合は「反社会的」な人である可能性が高いと思います。そして、「類は友を呼ぶ」のとおり、そうした反社会的な人が多く集まっているネットワークもあります。
暴力団組織がそう種のネットワークであるのはもちろんですが、普通に見えるネットワークでも、反社会的な傾向がある人はいます。その人数の割合が多いかどうかが問題です。
ネットワークというのは人脈や各種のコミュニティ、所属する組織、企業などを通じた“人のつながり”のことですが、自分のネットワークが反社会的な傾向が強いと感じても、しがらみがあったり、生活の糧を得るために簡単にはぬけだせないケースもあるでしょう。
しかしそれでも、私たちはそんなネットワークのなかで時間を費やすのではなく、自分をより成長させ、支えてくれるネットワークの一員になること目指したほうがよいのは確かです。
人生の時間は、何かを成し遂げるにはそれほど長くはないのですから。

Next: 基本と原則「真摯な人かどうか」

人を見る基本と原則2/4

•タイプ分けは要注意
•基本と原則「行動を見る」
•基本と原則「反社会的な人かどうか」
•基本と原則「真摯な人かどうか」

行動を見る

何を見るのか

人の言動にはある程度の傾向がある・・・これは当たり前といえば当たり前。なぜなら、何の傾向もなければ、その人がその人であるかさえわからなくなるからです。
私たちが一人ひとり違うのは、言動に特徴的な傾向があるから。その特徴的な傾向には、変わる部分もあれば、なかなか変わらず、死ぬまで同じような傾向を保ちつづける部分もあります。
よく性格は変わらないといわれますが、確かに短期的に変わることはまれ。けれども、何十年も経てば、性格がかなり変わるケースもめずらしくありません。ほとんど変わらない人もいれば、跡形もなく変わる人もいます。
こうなると、不確かなことばかりで、「人を見る目なんて本当に当てになるの?」といいたくなりますが、それでも確かな基本と原則はあります。
私たちの関心事は、何十年先まではわからないとしても、すくなくとも付き合いがつづくかぎり、信用できる人かそうでないかということにあります。
信用できのるか信用できないのか、それを評価する確実な方法は、言葉ではなく行動に目を向けるしかありません。
第一の基本と原則は、「行動を見る」です。

言葉にまどわされない

私たちの主張や言葉(話す内容)は、学習した知識や知りえた情報によって変わることがあります。若いころの主張がコロコロ変わりやすいのはその典型です。
また、客観的な事実を話しているつもりでも、自分の希望や期待を入れて、事実とは違う話をしてしまうこともあります。
だれしも守れない約束はしたくないのですが、結果的に守れないときもあります。なかには、頭のなかに約束を守れなかった理由をこしらえ、自分は悪くないと思っている人もいます。
政治家の多くは「自分はこうしたい」と熱心に政策を提案しますが、彼らはそんな言葉がどれだけ当てにならないかをいやというほど教えてくれています。最近では、数日前に言ったことと真逆のことを言っているのに、まったく気づかないらしい政治家をよく見ます。
“人を見る”とき、言葉は当てにしない、参考程度にしましょう。
とくに会ったこともない人や付き合いの短い人の言葉を鵜呑みにするのは危険ですらあります。
これは、若くて善意で優しい人ほど、相手のことを素直に信じやすいので、心にとめておいてほしいことです。素直なことは宝にすべき長所ですが、自分を守ることも必要。
世の中には信じてよい人と信じてはならない人がいます。だれでも信じ合えるという純粋な思いを利用する人がいます。それを見抜く目を持つことは最低限度、生きていくための術です。
出会った人に「私は“あなたのために何かしたい”と思っている」といわれても、本当にそうなのかは、心のなかを見られない以上確認のしようもありません。
本当に「あなたのために何かしたい」のかは、相手の行動を見て判定しましょう。何度同じことを言われても、何一つそれに値する行動がないのであれば、相手はまったく真剣な思いではないのです。

行動全体を見る

ポイントは、「行動を重視して相手を見る」という「積み重ね」です。
「人を見る目」は、相手といろいろなやり取りをするなかで、理屈ではなく相手の行動に接するという経験によって身につきます。
理屈は言葉で組み立てられるので、理屈で人を理解しようとしすぎる人は、相手の言葉にだまされやすいことでしょう。
「何かをする」「あなたを大切にする」「自分はこう信じる」・・・とくにこうした他人への思いや自分の姿勢を表明する言葉は、それらを裏づけるような行動を観察する必要があります。
積み重ねが大切だというのは、一つの行動だけで評価せず、相手の行動を総合的に見るということです。完璧な人はいませんから、言葉に反することもあるでしょう。しかし、いくつもの事例を重ねるうちに、その人の傾向はわかります。
恋人がデートの時間を守らないことが多いからといって、それだけで信用できないとは決めつけられません。
重大な問題に直面したとき、普段は軽率に見えたその人こそが全力で自分を支えてくれる人になるかもしれません。
人が信用できるかそうでないかは、一面ではなく全体的な評価です。
年配者のなかに的確な「人を見る目」を持つ人が多いのは、出会った人々の行動を見てきた豊富な経験から、直感的に人を判断する力、つまり「人を見る目」を持っているからです。
大方の年配者は、若いころ、相手の言葉を鵜呑みにしたり信用したりして痛い目をみています。ですから、歳を重ねるほど、相手の行動を見て人を評価する習慣が身についています。
「行動を見る」は、さまざまなメディアや同僚、先輩、著名人などの言葉から何かを吸収しようとするがゆえに、自然と言葉に影響されやすくなる若い世代へ、とくにたむけたい基本と原則です。

Next: 基本と原則「反社会的な人かどうか」

人を見る基本と原則1/4

•タイプ分けは要注意
•基本と原則「行動を見る」
•基本と原則「反社会的な人かどうか」
•基本と原則「真摯な人かどうか」

タイプ分けは要注意

人を見る目が人生を決定する

私たちは出会った相手が「どんな人なのか」、とても気になります。
それも当然で、これからお付き合いしていけるのか、一緒に仕事をしていけるのか、相手によって将来が左右されるからです。
「どんな人なのか?」という心のなかの問いかけ、これに答えるのが「人を見る目」。その心の目が「この人は○○」と判定すれば、それにしたがって、私たちは相手とどう付き合うかを決めていきます。
「なんて自己中(自己中心的)なの!」と判定すれば、付き合いに消極的になることでしょう。「信用できる人だ!」と判定すれば、関係を深めていくことでしょう。
ですから、結果的に「人を見る目」によって自分の周囲にいる人も決まってしまうのです。
人間は社会的な動物だといわれますが、自分の人生を大きく左右するのは社会全体ではなく自分の周囲の社会、周囲にいる人々の輪、自分の人的ネットワークです。
とどのつまり、「人を見る目」は人生を決定する重要な能力といえます。

手軽すぎる2タイプ分類法

「人を見る目」は、どのような方法で人を評価するのでしょうか。もっともよく聞かれるは次のように2タイプに分ける方法。

・明るいか暗いか
・優しいか怖いか
・自己中心的か利他的か
・積極的か消極的か
・社交的か内向的か
・他力依存型か自力型か
・支配型か被支配型か
・肉食系か草食系か

などなどのいわば白か黒かの2極に判定するタイプ分けです。
タイプ分けを話のネタにするだけなら問題ないかもしれませんが、タイプ分けしただけで理解した気になるのは禁物です。
2タイプで理解できるほど単純な心の持ち主はこの世には一人もいないからです。
人の言動には、確かに一定の傾向があります。ですからタイプ分けも、ある程度は意味がありそうです。しかし、頭の中で勝手にタイプ分けして、「このタイプの人は自分とは合わない」と距離をおくなどをくり返しては、せっかくの出会いのチャンスをつぶしかねません。縁あって出会った人をタイプに分けて理解しようとするのは、可能性をせばめることはあっても広げることはないでしょう。

可能性を活かすのは「人を見る目」しだい

結婚披露宴で「お見合いのときは暗い人だと思ったけど、仲人さんに申し訳ないのでデートしたら、とても明るい人だった!」などと、初めの印象がよくなかった人と結局はゴールインしたという話を聞くと、もし「暗い人」と決めつけて付き合わなかったらどうなっていたのだろうと、人の縁がいかにきわどいものかと思います。
そもそも「明るいか暗いか」は主観の問題。
「暗い」と評価した同じ人を他の人は「明るい」と評価するかもしれません。
その人のどこを見て明るい暗いと感じるのかは人しだい。二極型のタイプ分けはその程度の曖昧な分類法なのですから、「決めつけ」など到底できるものではないでしょう。
統計的に裏付けられるケースもあるので、すべてのタイプ分けが当てにならないわけではありません。ですが、多くの場合はタイプ分けして自分を納得させるためだけに使われているように見えます。
理解できない人がいるのが不安、ともかくどれかのタイプに当てはめて安心しようとする心理がはたらくのかもしれません。
人を見るむずかしさは、人の言動にはある程度の傾向があっても、つねに変化しているので決めつけはできないことです。
とくに成長いちじるしい人には、二、三年でまるで別人になったと周囲を驚かす人もいます。「自己中な彼が気配りするようになった!」などと。
しかし、その程度の変身で驚く人は、別人のようになった人の可能性を「見る目」がなかっただけなのかも。
タイプ分けして相手を理解したつもりになるのは、いかがなものかと思います。

Next: 基本と原則「行動を見る」